■指宿橋牟礼川遺跡国指定100年 県内最大級!古墳時代集落の発見!
橋牟礼川遺跡の発掘調査によって、この遺跡では飛鳥時代と平安時代という2つの時代に開聞岳の噴火による火山災害を経験していることが明らかとなりました。この発見によって、橋牟礼川遺跡がイタリアのポンペイのように火山噴出物の直下に古代の情報を未来へ残した遺跡であることが分かりました。
さらに下の地層を目指して掘り進めると、古墳時代(おおよそ3世紀半ば~6世紀、日本列島の広い範囲で前方後円墳や円墳という墓を多く作った時代)の建物群が姿を現しました。建物と言っても1500年前もたっているので屋根や柱は一切残っていません。代わりに建物の「竪穴」や「柱の穴」が見つかるため、考古学者はその大きさや形状から建物の本来の姿を復元しているのです。
一般的な古墳時代集落では10~20軒ほどの竪穴建物跡が見つかりますが、橋牟礼川遺跡からは150軒ほどが見つかっています。それも、遺跡内を走る道路部分しか掘っていないにもかかわらずその数ですから、本来の建物数は何倍もの数になると考えられるのです。これだけ建物跡が密集する古墳時代集落は県内でも珍しく、それだけ多くの人々が、長期にわたってこの集落で生活を営んだ証拠と言えます。
また、集落だけでなく当時の人々が使用した土器を捨てた「土器捨て場」や食べた貝を捨てた「貝塚」も見つかりました。これらの古代人のごみは、むやみやたらに捨てられたのではなく、一定の範囲に捨てられていることから、捨てる場所や種類までも決められていた可能性があります。見つかった大量の土器は、この地で多くの人々が生活していたことを示す物であり、大量の貝類は当時の人々が豊かな海産資源に恵まれていたことを示しています。それだけ古代人にとってこの橋牟礼川遺跡の集落は住みやすい環境だったのでしょう。
その他にも建物内からは「子持勾玉(こもちまがたま)」と呼ばれる勾玉の背や腹に勾玉を付け加えたような少し変わった形態の勾玉も出土しています。県内では唯一の出土例として知られ、特定の上位階層者による祭祀(さいし)との関連性も指摘されています(渡部1992)。
集落の規模だけでなく、出土遺物の質も県内屈指であり、橋牟礼川遺跡は九州南部を代表する拠点的な集落であると言えるのです。
〔参考文献〕
渡部徹也(わたなべてつや)
1992「橋牟礼川遺跡出土の子持勾玉について」『人類史研究』第8号
■企画展・シンポジウムのお知らせ
指宿橋牟礼川遺跡が国指定史跡に指定されて今年で100年の節目を迎えるのを記念して開催します。指定100年をぜひ一緒に盛り上げましょう。
◇企画展
「日本の歴史を変えた先史時代のポンペイ」
期間:10月5日(土)~令和7年3月2日(日)
会場:指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ
◇シンポジウム
日時:11月24日(日)
会場:指宿市民会館
問合せ:生涯学習課文化財係
【電話】23-5100
<この記事についてアンケートにご協力ください。>