■大正13年の国指定から100年!
橋牟礼川遺跡発見物語橋牟礼川遺跡は大正13年(1924)12月9日に国指定史跡に指定され、今年で指定100年の節目を迎えます。
遺跡が発見されたのは、大正5年(1916)のこと。指宿村出身で、旧制志布志中学校(現県立志布志高等学校)へ通っていた西牟田盛健(にしむたせいけん)が、橋牟礼川の土手で縄文土器と弥生土器の破片を拾い、学校に持って行きました。大正初期、縄文土器(当時は「アイヌ式土器」と呼称)と弥生土器は時代の違いではなく異なる民族が使っていたとする説が主流でした。そのため、同じ場所で2種類の土器が見つかったことは多くの考古学者の注目を集めたのです。
大正7・8年には京都帝國大学の濱田耕作(はまだこうさく)、長谷部言人(はせべことんど)らによる発掘調査が行われ、火山灰層を挟んで下の地層から縄文土器、上の地層から弥生土器が出土しました。地層は「下の層ほど古く上の層ほど新しい」ことから、現在では常識となっている「縄文土器が弥生土器より古い」すなわち「縄文時代が弥生時代より古い時代」であることが日本で初めて証明されたのです。さらに濱田耕作は、火山灰層の存在から、橋牟礼川遺跡を「先史時代のポンペイ※1」と呼び、火山災害遺跡である可能性を示しました。この日本の歴史を変えた大発見により、橋牟礼川遺跡は「国指定史跡指宿橋牟礼川遺跡」となったのです。
さて、その後の橋牟礼川遺跡はというと、長らく調査が行われることはありませんでした。遺跡の研究が大きく進展するのは昭和61年〜平成3年にかけて行われた土地区画整備事業に伴う発掘調査がきっかけでした。昭和63年には地面から約1メートルの深さで平安時代の貞観16年(874)3月25日の開聞岳噴火によるものとされる火山噴出物によって倒壊した建物や埋没した畑の跡が発見されました。濱田耕作が予想した「先史時代のポンペイ」が実際に姿を現したのです。
橋牟礼川遺跡が国の史跡となった背景には、日本考古学の黎明(れいめい)期に1人の少年が手に取った土器と、先見の明に優れた考古学者による発掘から始まる物語があったのです。
※1 イタリア南部の古代ローマ帝国の都市。西暦79年、ヴェスヴィオ山の噴火により埋没した。
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