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ひおき歴史街道〔No.33〕

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鹿児島県日置市

■下地中分(したじちゅうぶん)

「下地中分」(したじちゅうぶん)という言葉に聞きなじみのある方は、決して多くないかもしれません。下地の歴史用語としての意味は、鎌倉時代から室町時代にかけての中世において、年貢などを納めるべき田畑や山林などの土地のことを指します。下地中分は、その土地を二分(にぶん)することです。
中世には、一つの土地に対し、その所有者である庄園(しょうえん)領主と幕府の地頭が年貢などをそれぞれ集める権利を持つ場合があり、複雑な支配体制が敷かれていました。時として、庄園領主と地頭は、その土地の支配権をめぐって訴訟や相論(そうろん)(争論)となることがあり、その解決方法の一つが下地中分でした。日置市域では、鎌倉時代後期の元亨(げんこう)4年(1324)に日吉地域や吹上地域で下地中分が行われたことが分かっており、今年はその下地中分からちょうど700年目の年となります。
日吉地域では、日置北郷(ほくごう)(日置市日吉町)や日置新御領(しんごりょう)(同町)、吹上地域では、伊作庄(同市吹上町南部)と呼ばれた庄園で行われています。当時、これらの庄園は、奈良興福寺一乗院(こうふくじいちじょういん)を領家(領主)とする庄園でした。一方、地頭は、島津分家の伊作氏が地頭を務めており、両者はたびたび相論となっていました。この下地中分により、領家・地頭双方は、紛争を解決するとともに、中分したそれぞれの土地を排他的な一元(いちげん)支配を互いに確立していくことになりました。こうして、支配を強化した伊作氏は、在地領主(ざいちりょうしゅ)に成長していくことになります。

◇鹿児島県指定有形文化財(古文書)
「吉利郷惣絵図」(よしとしごうそうえず)
(鹿児島県歴史・美術センター黎明館蔵(日置市寄託))
江戸時代の吉利郷(日置市日吉町吉利)の絵図。同郷の領主であった禰寝(ねじめ)家の21代清雄(きよかつ)は、元禄12(1699)年、領地を測量して絵地図にしたが、破損したので、宝暦3年(1753)に同家24代清香(きよたか)が修理させたもの。縦約3.5m・横約3mの大きな掛軸(かけじく)で、詳細に描かれている。元亨(げんこう)4年(1324)の下地中分の際に描かれた「薩摩国日置北郷中分絵図」との比較の上でも重要な絵図である。

〔参考図書・史料〕
『鹿児島県史料』旧記雑録前編1(鹿児島県)、安藤保氏「吉利郷惣絵図」(『鹿児島県文化財調査報告書』59鹿児島県教育委員会)、『日吉町郷土史』上・下巻(旧日吉町)、『吹上郷土誌』通史編1・資料編(旧吹上町教育委員会)、井上聡氏「薩摩国日置北郷中分絵図に関する現地調査と考察」(東京大学史料編纂所高橋敏子氏東京大学史料編纂所研究成果報告2011-6「画像解析とフィールドワークに基づく荘園絵図情報システムの構築」)

問合せ:日置市教育委員会社会教育課文化係

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