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深発見 さつませんだい歴史文化遺産

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鹿児島県 薩摩川内市

薩摩川内には長い歴史の中で起きた物語、育まれた文化が数多くあります。
このコーナーでは、数ある薩摩川内の歴史・文化の中から、とっておきのトピックスをご紹介します。

■第拾漆(じゅうしち)回 川内大綱引
今年、4年ぶりに開催された川内大綱引。このページでは川内大綱引がいかに独特な行事であるかと、記録からみる歴史についてご紹介します。

◆綱引行事の起源
綱引行事は全国的に小正月・お盆・十五夜に行われる稲作儀礼として豊穣を祈願する神事で、県内では十五夜に多く行われます。
綱引の後、綱を輪にして土俵として、相撲を行う地域もありますが、この輪は月あるいは蛇を表し、満ち欠ける月、脱皮を繰り返す蛇は不老長寿と再生を結びつけるといわれています。

◆ここが違う!川内大綱引
そんな綱引行事の中で、川内大綱引は他の行事とかなり異なる特徴があります。

○勝負への執念
川内大綱引はまず勝ち負け。互いに誇りをかけて挑み、強い絆を生む。

○太鼓が重要
綱引における司令塔ともいえる一番太鼓。太鼓が鳴る間しか綱を引くことが許されない。一番太鼓は一生に一度の名誉職であり、憧れ。

○綱「引」なのに「押」隊がいる
相手の引隊(ひきたい)を邪魔する押隊(おしたい)。また相手の押隊から自軍の引隊を守るのも押隊。常に体を張り、絶対に「引かない」。

○ワサをダン木にかける
初めて見る人は誰しも「これはありか?」と感じる行為。世界の綱引に類をみない防御手段。掛け損なったら勝負がついてしまうので、「ワサ係」はワサ作りから戦いが始まっている。

○秘密兵器「引綱(ひきつな)」
直径4センチメートルの握りやすい太さで、大綱に取り付け、大人数で引きやすくする。記録によると昭和54年に向田開催で下方がつけたのが始まり。現在は本数を決めて上方・下方均等に配る。勝敗を大きく左右する切り札で、保管場所も秘密。

◆川内大綱引の記録
川内大綱引の実施について、現在確認できる最古の資料は、明治34年(1901)『回天(かいてん)同窓会々報』第三号という小学校同窓会の会報で、前年(明治33年)に「全体の綱引例年より遅く始まれり」とあり、この以前から行われていたことが分かります。
また新聞記事では、明治40年(1907)の『鹿児島新聞』9月26日付記事で「有名なる川内の綱曳(つなひき)」として十五夜の日から「大小路、開聞、向田上町、白和、向田等順次毎晩」旧暦十八日まで4日間行われた、とあります。各町で日程をずらして行われていたようです。
大正3年(1914)には鉄道川内線(川内町駅―鹿児島駅間)の全線開通を受け、各町でそれぞれ決めていた日程を話し合いで調整することになり、合わせて実施場所も調整し、向田町、新道通り、大小路、白和町の4カ所に集約することになりました。
昭和13年(1938)10月13日付の新聞では、「川内地方年中行事中の代表的なものの中で先づ第一指に屈せらるる川内町向田本町通りの中秋八月の十五夜大綱引が」とあり、当時からこの地方を代表する行事であったことが分かります。また、戦時体制の中、綱引を行う理由を「単に娯楽といふに止まらず」「古来地方青少年の士気を養ひ鼓舞する」としており、ただの綱引ではないことが強調されています。
しかし昭和19年(1944)以降、厳しい戦局の中、この年から綱引は中止。本市域も空襲を受け、多くの被害が出ました。
戦後、復興を進める中で昭和22年(1947)、川内大綱引も復活しました。復活の大きな原動力となったのが「川内部屋」です。
川内部屋は地方の草相撲団体で、力自慢の若者が毎晩稽古に50人ほど集まったといいます。川内部屋が戦後の町の治安を守り、川内大綱引を支えました。

◆川内大綱引のこれから
これまで川内大綱引は、地元の商工業者や住民が協力して知恵を出し合い、工夫を重ねて行事が継承され、他の綱引行事と異なる独特の変化を遂げています。また、綱引のために県外から帰ってくる若者も少なくなく、川内大綱引は人と地域を結ぶ行事でもあります。伝統を守りながら進化していく、この稀有な行事を未来へ引き継ぎ、来年の開催に向けた準備はすでに始まっています。

文責・問合せ:社会教育課文化財G(中央公民館内)
【電話】22-7251

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