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【郷土史への扉】治定(じじょう)150年高屋山上陵(たかやさんじょうりょう)

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鹿児島県霧島市

空港の近くにひっそりとある(※1)高屋山上陵(たかやさんじょうりょう)。宮内庁が管轄するこの御陵は今年7月、(※2)治定(じじょう)150年を迎えます。政府から神の墓だと治定された山は、その決定までの歴史も面白いものです。

■そもそも山陵とは
陵(りょう・みささぎ)とは天皇・皇后などの墓所を指します。高屋山上陵は、『古事記』・『日本書紀』に書かれる天皇家の祖先神である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の墓所とされる場所です。薩摩川内市の可愛(えの)山陵(瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の墓所)、鹿屋市の吾平(あいら)山上陵(鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の墓所)とともに、南九州を舞台とした日向神話の神の墓所として神代三山陵(じんだいさんさんりょう)と呼ばれています。

■さまざまな候補地
『古事記』・『日本書紀』には神代三山陵の名前だけがあり、場所について具体的な記述はありません。江戸時代になると、国学という学問の中で、神話に書かれた場所がどこか考察する動きが起こります。薩摩藩では白尾国柱(しらおくにはしら)という学者がこの三山陵の場所を考察し始め、後の学者たちに影響を与えます。その頃の薩摩藩の学者は、高屋山上陵は現在の溝辺ではなく、内之浦郷小串村(現・肝付町)の国見岳山頂が有力候補地だと考えていました。ほかにも、横川町上ノにある弓削(ゆげ)が丘という小高い丘が御陵だという伝説があるように、神話に名前だけ書かれた神の墓は実在するかどうかに関わらず、鹿児島・宮崎のさまざまな地域に候補地や伝説地として現われていったのです。

■明治7年の決定
明治維新は、神話をその出自の基にする天皇を、政治の中心と据えるものでした。そのため、明治になると神話上の場所を政府が定めるという動きが出てきました。鹿児島だけでなく宮崎にもさまざまな候補地があったものの、明治政府で力が強かった薩摩藩の影響か、三山陵の場所は薩摩藩内にある候補地が有力となっていきます。特に高屋山上陵の場所は内之浦が有力視されていて、明治5(1872)年に明治天皇が来鹿された際には、山陵として内之浦を(※3)遥拝(ようはい)されました。しかし、新たな説として溝辺の神割岡が急浮上します。官命により溝辺を実地調査した田中頼庸(よりつね)が『高屋山陵考』を著し、高屋山上陵は溝辺にあると力説します。その根拠は『古事記』に「高千穂の山の西」にあると書かれていたことと、神割岡の近くに鷹屋神社があり、「高屋」が「鷹屋」と音が通じるというものでした。この説はにわかに取り上げられるようになり、当時の宮内省によって明治7(1874)年7月、神代三山陵が治定。高屋山上陵については溝辺説が採用され、現在の場所に決定しました。
なお、神代三山陵の決定に先立ち、同年2月に霧島神社は霧島神宮へ、同年3月に鹿児島神社は鹿児島神宮、鵜戸神社は鵜戸神宮(宮崎県日南市)へと改称され、神宮号が与えられました。神宮とは、神社の中で天皇や天皇の祖先神を祭神とする特別な由緒があると勅許を受けた神社です。この決定は、各陵で行われる祭祀(さいし)を神代三山陵では行わないこととし、霧島・鹿児島・鵜戸の三神宮での祭祀をもってこれに代えるという目的で行われました。
伝説の場所を決定するのにも、その時代の学者の駆け引きや学問・政治の状況が深く関与します。決定過程に着目することで、新たな歴史の見方が出てくるのです。
(文責=小水流)

(※1)通称。正式には「たかやのやまのえのみささぎ」と読む。
(※2)国が場所を特定・決定すること。
(※3)遠くの場所を拝むこと。

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