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名張にも戦争があった

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三重県名張市

■焦土(しょうど)の大阪から疎開、そして・・・
戦争の方も、敗戦の色が濃くなってきた昭和二十年五月頃、大阪大空襲で父の経営する工場も、母の経営する料理亭も焦土と化し、やむを得ず、両親と姉弟の六人が三重県名賀郡滝川村一ノ井に、六月頃、両親に連れられお世話になりました。
学校も滝川国民学校に転校し、姉妹仲よく通学したが、なんと言っても田舎の学校で、迷うことが多くありました。家に帰って友達もなく、家の中でばかり遊んでいたが、一カ月も経つと、田舎の生活にもなれて来たので、結構楽しい日が続いたが、私達にとって生涯忘れる事の出来ない、又私達の運命を変える七月二十四日の日がやって来ました。
その日、両親が、二歳の弟を連れ、すでに焦土と化した自宅の整理と、家を探しに行くと言って、七時三十分頃に家を出たのが、幼い私達にとって最後の別れでした。
両親が出たあと、私達姉妹が学校に行く準備をしていた時、警戒警報が発令になったので学校も休校となり、家で両親の帰宅を待つことになりました。何分か過ぎたころ(八時過)飛行機が低空で飛び去りつつパンパンと機関銃の音がしました。
恐ろしくて三人は、フトンの中で抱き合っていました。その時(九時三十分頃)近所のおばさんが駆け込んで来て「お父さんが飛行機に撃たれけがをした、早く役場に行きなさい」と、異様な態度で知らせてくれたので急いで三人が役場に走っていきました。
役場では、大勢の人が身体から出血させ、悲鳴を上げていましたが、私たちの両親も弟の姿もなかったので、役場の人に尋ねたところ、学校に行くように言われたのですぐ学校に走っていきました。
講堂一杯にけがした人が寝かされていたので、一人ひとり探してゆくと父を見つけ、「お父さん」と言って駆け寄ったが右足を粉砕され、死の直前で、その横には母は胸部を銃弾で貫通され死亡、弟は電車内で、大混乱の時、踏まれて死亡し、両親に抱かれるように並べられておりました。
三人はただ、あまりの事に泣く気力もなく、呆然(ぼうぜん)として、一瞬を過ぎた時、父は最後の気力を出して「父の実家の石川へ行け。家は造り酒屋をしている、おじいさんや、お婆さんの所へ行け」と言って息を引き取りました。
私たちは、石川県のおじいちゃんに連絡する方法も判(わか)らず困っている時、以前私の家で家政婦をしていてくれた人の父親が来てくれ、両親の葬式等のあとしまつをしてくれました。

■妹、節子銃撃にたおれる
―忘れることの出来ない恐ろしく悲しい日の想い出―
昭和二十年の八月八日朝八時すぎ、突然空襲警報が鳴り出した。
中村区の中空を飛んでいたグラマン一機が、伊賀線美旗駅に向かって低空飛行して来た。ダ、ダ、ダ、ダッー。おばを裏口から引っぱりこみ、伏せるのがやっとの思いで、気がついて見ると、中庭に妹節子が仰向けに倒れていた。機関砲ダムダム弾のために左大腿部を引き裂かれ、動脈からどくどくと血があふれ出ていた。同時刻に、気分が悪く部屋で寝ていた敏子姉も背中の肉がそぎ取られていた。
父は、とっさに自分の兵児帯で出血を止めようとした。小屋、部屋、中庭には、四、五十発の砲弾が撃ちこまれていた。妹の出血はひどく、臨時の収容所になっていた小学校の講堂へ戸板で運ばれることになったが、母が病で動けず、父もすっかり気落ちしてしまい、私だけが付き添って行かなければならなかった。この時が、妹と父母との最後の別れになってしまった。
美旗駅で近鉄線に沿って飛んでいたグラマン一機が電車めがけて乱射し、乗客の多数が死んだり、傷ついたりした。仮の収容所に充てられた小学校の講堂内では、多くの人が呻(うめ)き苦しんでいたが、妹もその人たちと一緒に並べられた。
ダムダム弾の鉛毒が全身にまわるまでに撃たれた足を切断することになった。医療器具も麻酔薬も何一つなく、鋸(のこぎり)一つが切断の道具だった。妹は自分から口にタオルをねじこみ、痛みに耐えてうめき声一つ出さなかった。私は居たたまれず耳をふさぎ泣きながら廊下を走った。水を欲しがる妹に、「飲むと後で苦しくなるから。」となだめ、タオルで口を湿らしてやろうとすると、「自分でやる。」といって何回も湿らしているのを見ると哀れで、出来るものなら思いきり飲ませてやりたかった。
誰かが阿保町の病院にリンゲルが一本残っていると云(い)う情報を知らせた。一縷(いちる)の望みをかけて待った。二十分、三十分、妹は「目がみえなくなって来た。」と云う。私にはどうしてやることも出来ない。ただおろおろしていると、「少し見えて来た。」とうそをついてまで私を心配させまいとする妹、四十分、五十分、もうろうとした意識の中でまだ帰還せぬ兄を思い出したのか、「兄さんより先に行くのは悪いなー」とひと言。眠るように息を引きとった。待ちに待ったリンゲルはやっと届いたがすでに間に合わなかった。
リンゲルはまだかと苦しみに耐えている妹の気持ちを思うと胸も張り裂けるばかりだった。大怪我をしながら泣きもせず、苦しみを一度も訴えたことがなく、常に正気のままの妹だった。
昭和二十年八月八日四時
妹節子死す。
享年二十一才

出典:▼「名張にも戦争があった」 そみの会/編 平成5年発行
▼「名張の今昔」 名張の今昔出版の会 平成5年発行 一部編集して掲載。本文中の一部に残酷な描写がありますが、原文のまま掲載しております。この本は、図書館で借りることができます。

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