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《特集》炭鉄港を物語る文化財

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北海道美唄市

2019(令和元)年5月20日、「炭鉄港」が「日本遺産(Japan Heritage)」に認定されました。「炭鉄港」を物語る美唄市の構成文化財、三菱美唄炭鉱竪坑やぐら櫓、人民裁判の絵(人民裁判事件記録画)、旧栄小学校、美唄鉄道東明駅舎・4110形式十輪連結タンク機関車のほかに、炭鉱に関連のある次の4点の文化財を紹介します。
企画・編集:市民編集委員 福田征機

■榎本武揚(たけあき)揮毫(きごう)の社号額「幌内神社」
開拓使の鉱山担当榎本武揚や米国鉱山技師ライマンが空知地方の地質を調査し、1879(明治12)年現三笠市に官営幌内炭鉱が開鉱、翌年の1月に幌内炭鉱の山神社が創建されました。神社社殿には、幌内炭鉱の開鉱に貢献した榎本の揮毫した社号額「幌内神社」が掲げられていました。現在この社号額は三笠市指定文化財に指定され、峯延(峰延)神社宝物殿(ほうもつでん)に移されています。社号額の縦は3尺5寸(約106cm)、横は12尺(約363cm)、厚い一枚板右上に関防印(かんぼういん)「所能者天也(能(よ)くする所の者は天也)」(出典、蘇軾(そしょく)の「潮州韓文公廟碑(ちょうしゅうかんぶんこうびょうひ)」)に次いで、右から「幌内神社」と金泥(きんでい)で記され、最後に「明治15年5月吉旦正四位(きったんしょうしい)榎本武揚謹書(きんしょ)、その下に姓名印「榎本武揚」と雅号印「号梁川(りょうせん)」が刻印されています。社号額は、明治15年、炭鉱開鉱に功のあった榎本に社号を揮毫してもらいその書を扁額(へんがく)にしたと考えられます。

■楠木正成(まさしげ)の絵馬
石炭産業は、第一次世界大戦後の世界経済恐慌のあおりを受けて不況の波に見舞われました。1923(大正12)年5月11日、飯場頭の林吉太郎・嶋作豊次郎など寄贈有志者68人は、旭台にあった山神社に楠木正成の絵馬を奉納しました(三菱美唄記念館所蔵)。寄贈者は炭鉱の景気回復と石炭報国を祈願し絵馬を奉納したと推量されます。寄贈有志者の中の6人は朝鮮人の飯場頭と思われますが、大正7年頃には朝鮮人飯場を含め大小合わせて30カ所以上の飯場がありました。

■大山祇神(おおやまつみのかみ)の絵馬
戦争の拡大激化とともに労働力不足が深刻化したため、1941(昭和16)年11月、政府は「国民勤労報国協力令」を公布し、勤労奉仕を義務付けました。本勅令により、多数の国民が軍需工場、鉱山、農家などへ動員されました。1944(昭和19)年8月6日、東京提燈(ちょうちん)商組合勤労報国隊は、旭台の山神社に大山祇神の絵馬を奉納しました(市郷土史料館所蔵)。この絵馬は、12人の東京提燈商組合勤労報国隊が炭鉱事故に遭わず無事に退山できたことの山の神への謝礼として奉納したものです(昭和19年5月16日、三菱美唄炭鉱の竪坑のガス爆発事故で死者・行方不明109人)

■安田侃の彫刻作品(炭山(やま)の碑、静江(せいこう))
安田氏は、大理石やブロンズを用いた有機的な曲線と、環境を選ばずあらゆる空間と調和し得る作品づくりが特徴で、その作品は国際的に評価されています。「炭山の碑」(1980年)は、坑夫たちの魂の解放や慰霊を扱った作品で我路ファミリー公園に設置されています。安田氏は「…あの三本の立像は、地底に眠る魂を吸い上げて、天に放してあげようという発想から創作したものです。(中略)コンセプトがきちっとあって、立てたい人が大勢いて、慰霊碑を必要とする思いがあって、歴史を形にして残しておきたいという意思がたくさんあったわけです」と述べています。
1986年10月、美唄の市民有志は韓国天安市の「国立墓地望郷の丘」に、朝鮮人473人の実名を彫った慰霊碑「静江廟(せいこうびょう)」を市民の募金により建立しました。除幕式には、当時の滝正市長、谷口得章市議会議長、安田氏、森山軍治郎美唄専修短大教授、安藤淳教育次長、井澤弘喜法宣寺住職、東松道毅(とうまつどうき)大安寺住職など、25人が参加しました。滝市長は「異国に散った皆様の胸中を想い、深い悲しみを覚えます。再びこのようなことを起こさないように誓いを新たにします」と追悼の辞を述べました。この時、安田氏の作成したモニュメントの設置は、韓国国立墓地の様式に合致せず断念。その思いは2006(平成18)年、韓国釜山市のAPECナル公園にモニュメント「静江」を設置することで実現しました。

問合せ:企画広報課広報情報係
【電話】63・0113

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