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みよし歴史探訪

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埼玉県三芳町

■三芳誕生130年
~幕末動乱期の三芳(2)~

ペリー来航による外圧は徳川幕府を揺るがし、尊皇攘夷思想の広がりは幕府の権威を大きく失墜させた。そのため幕府は、反幕府運動の緩和を図るため公武合体政策を推し進め、十四代将軍家茂(いえもち)と孝明天皇の妹皇女和宮との婚礼を画策した。
徳川将軍家は、三代将軍家光以降、京の公家や宮家の姫君を正室として迎えることを慣例としていた。姫君が京から江戸へ下向する場合、東海道か中山道を通行する。中山道は、東海道に比べ距離が長く険しい山道ではあるが、大井川など大河が少ないため増水による川留めがなく安定した旅程が組める。そのため、九代将軍以降に下向した姫君の多くは、中山道を通行して江戸に入った。文久元年(一八六一)に下向した和宮も、その一人である。
和宮の下向は、空前の大行列であった。これまでの姫君の行列は、概ね付添役が千人程度、幕府側の迎え役を含めると約二、三千人規模であったが、和宮下向時は付添役と迎え役合わせて二万数千人と言われている。そのため、多くの村々に人馬の賦役(助郷)が徴発された。
上富の武田家文書に、「和宮御下向に付浦和宿出人足議定の事」がある。これは、和宮下向の際に桶川・上尾・大宮・浦和・蕨の五宿役人の間で詳細が決められ、議定書が作成されたものを各村で書きとめたものだ。上富村は、浦和宿に助郷を申し付けられた。議定には、賦役を勤めるものに対して「前日泊の桶川宿に人馬を集め、当日泊の板橋宿まで原則交代はないこと」「御用が済むまで人足から村役人に至るまで禁酒し手違いがないように慎むこと」など細かな注意が記されている。もし途中で逃げる者がいれば、重い罰金に処すとも記されている。和宮の旅路は、村々に課せられた重い負担によって支えられていたのである。

問合せ:文化財保護課
【電話】258-6655

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