深谷市長 小島進 ×
渋沢栄一翁ひ孫 渋沢雅英
(株)ドトールコーヒー名誉会長 鳥羽博道
郷土の偉人渋沢栄一翁が肖像となる新一万円札の発行が、令和6年に予定されています。新紙幣発行に向けて今年もますます注目されるであろう栄一翁について、小島市長と、栄一翁のひ孫にあたる渋沢雅英氏、深谷出身の実業家である鳥羽博道氏の三者が、栄一翁にゆかりのある帝国ホテル東京で語り合いました。会場には『渋沢栄一アンドロイド』も登場し、ひ孫の雅英氏と初対面しました。
深谷市長 小島進(こじますすむ)
栄一翁が大切にした『自分だけでなくみんながうれしいのが一番』という考え方が私の仕事の根底にあります
公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢雅英(しぶさわまさひで)相談役
父敬三がまとめた栄一の伝記資料に大変感心しまして、それ以来ずっと栄一のファンです
1925年生まれ(97歳)。曽祖父は栄一翁。父親は日本銀行総裁や大蔵大臣などを歴任した渋沢敬三氏。著書に大河ドラマ『青天を衝(つ)け』の参考資料に用いられた『太平洋にかける橋 渋沢栄一の生涯』など。
株式会社 ドトールコーヒー 鳥羽博道(とりばひろみち)名誉会長
栄一翁が生涯実践した論語の『仁(じん)』である『思いやり』を子どもたちに伝えていきたいですね
1937年生まれ(85歳)。深谷市出身。1962年にドトールコーヒーを創業。2021年には優れた企業経営と社会への貢献を実践している経営者を表彰する『渋沢栄一賞』を受賞。深谷市へ『渋沢栄一アンドロイド』の開発費用などを寄附。
◆大河ドラマや新紙幣で全国から注目される栄一翁
小島市長:本日は、栄一翁が初代会長を務めた帝国ホテルで、このように雅英さんと鳥羽さんとお話ができ、とても光栄です。お二人ともいろいろな場で活躍されていますが、おいくつになられましたか。
渋沢氏:私は97歳になりました。
鳥羽氏:お元気でしっかりされていますよね。私は85歳になったのですが、何とか95歳まで生きたいと思っています。確か栄一翁は91歳までご存命だったので、それよりもご長寿な雅英さんはすごいですね。
小島市長:そうですよね。お二人が元気で活躍している姿を見ると私も力をもらえます。今日はよろしくお願いします。
まずお伺いしたいのですが、お二人は栄一翁が新一万円札の肖像に決まった時はどう思いましたか。
渋沢氏:私は身内として栄一のことを聞いて育ったものですから、びっくりしたというより、『やっぱりそうか』という感じでした。
鳥羽氏:栄一翁は、江戸時代から明治時代に変わる近代日本の礎をつくったかたなので、その働きからみたら『採り上げるのが遅すぎた』という印象ですね。
小島市長:そうですね。私も、もっと早く採用されてもよかったのかなと思います。
渋沢氏:お札になると日本中の人が栄一の顔をポケットに入れたりするわけですから、一言で言い表しにくいですけれど、『それだけすごい人だったんだな』と思います。
小島市長:現金なしの『キャッシュレス』でも成立する今の世の中で、栄一翁がお札の肖像になったというのは、逆に栄一翁が人と人を結びつける役割を担うということだと私は思うんです。
また、栄一翁は新紙幣の肖像に続いて大河ドラマの主人公にも決まりましたね。ドラマはどのようにご覧になりましたか。
渋沢氏:伝記資料を引用したせりふやストーリーでしたし、栄一が仕えた徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公や明治維新以後の日本が始まるシーンも出てきたので、とてもうれしく、すてきなドラマだと思いました。
小島市長:大河ドラマで、栄一翁のお母さんが『あんたがうれしいだけじゃなくて、みんながうれしいのが一番なんだで』と言うシーンがありましたよね。
渋沢氏:あれはいい言葉ですね。
小島市長:私は市長として仕事をする時に、それが自分の根底にあって、『栄一翁ならどう言ってどう行動するだろう』と考えながらやっているんです。
鳥羽氏:なるほど。そうなんですね。
◆栄一翁のひ孫が語る曽祖父(そうそふ)『渋沢栄一』の姿
小島市長:雅英さんから、ひいおじいさんである栄一翁とのエピソードなどをお聞かせいただけますか。
渋沢氏:栄一は私が6歳の時に亡くなっているので、なかなか記憶に残っていないんですよ。唯一覚えているのはお葬式の記憶です。
小島市長:そうなんですか。
渋沢氏:棺を乗せた車などが自宅のある飛鳥山から、斎場のある青山まで列となって走ったのですが、その車に私は乗っていました。まだ6歳の頃なので何のことかよく分からなかったのですが、沿道がたくさんの人で埋まっていたので、栄一はよほどすごい人だったんだろうなと、幼いながらに思いました。
小島市長:それは貴重なエピソードですね。
渋沢氏:ただ、その年は満州事変が起こり、10年後には真珠湾攻撃だったので、『栄一があれだけ日本を良くするために働いたのは、何のためだったのだろう』と子どもの頃はよく思っていました。日本が戦争で負けて、国や家も失いめちゃくちゃでしたから、栄一をあまり尊敬していなかった時もありますね。
小島市長:そんな時期もあったのですか。
渋沢氏:はい。でも、日本がまた復興しはじめると、『やっぱり栄一は偉かったんだな』という意識がだんだん戻ってきました。私の父敬三(けいぞう)が栄一の伝記資料をまとめたのですが、それを読み大変感心しまして、それ以来ずっと栄一のファンです。
小島市長:父親である敬三さんにとって、栄一翁はどんな存在だったのでしょうか。
渋沢氏:父は、財界人としても学者としても利口な人で、彼にとって祖父である栄一をすごく尊敬していました。
小島市長:そうだったんですか。
渋沢氏:父は『栄一にはかなわない』という感じで話をしていました。また、栄一のことを『真剣勝負をした人だ』とよく言っていましたね。
小島市長:敬三さんは本当に栄一翁をリスペクトしていたんですね。
渋沢氏:父は栄一からかわいがられていたようで、よくウナギの店に連れて行ってもらったみたいです。
小島市長:そうですか。栄一翁はその時代のおいしい物もいろいろ食べていたはずですよね。それにもかかわらず、地元深谷に戻った際は、煮ぼうとうが好きだと言って、おかわりして食べてくれていたみたいなので、それがうれしいです。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>