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枚方に古代都市!?百済寺跡(くだらでらあと)の謎に迫る1

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≪文化財を市長が巡る ブラタカシ≫
動画は市公式YouTubeからご覧ください!

今から約1250年前、枚方の地に平城京のような碁盤の目をした古代都市があったことをご存知ですか?今回の特集では文化財課職員の案内で伏見隆市長が某人気テレビ番組風に、中宮・禁野をぶら歩き。近年の発掘調査で明らかになってきた「百済寺跡(くだらでらあと)」と「禁野本町遺跡(きんやほんまちいせき)」の謎に迫ります。

・枚方市長 伏見隆
・広報プロモーション課 本田美幸
・文化財課 井戸竜太[プロフィル]東京都出身。日本史の謎を解明しようと奈良の大学で考古学を学ぶ中で枚方の文化財的価値に注目。平成28年、枚方市に入職した。「文化財調査は市民の皆さんの協力があってこそ。成果を分かりやすく多くの人に伝えたい」と熱く語る。

■鍵を握るのは中宮に移り住んだ王族の末えい
◇国が滅び帰れなくなった百済王一族の子孫
百済王氏(くだらのこにきしし)とは、7世紀後半に滅んだ朝鮮半島の国「百済」の王族の末えいです。国が滅んだあと帰れなくなった王子・禅広(ぜんこう)らを祖先とする一族で、朝廷に仕え難波(大阪市東住吉区・生野区付近)に住んでいました。8世紀後半に枚方の中宮付近に移り住んだと考えられています。

◇奈良の大仏建立で黄金を献上し大出世
陸奥国(宮城・福島県など)で国司を務めていた百済王敬福(きょうふく)は東大寺の大仏建立用に、黄金900両を聖武(しょうむ)天皇に献上。喜んだ天皇は敬福を7階級特進させました。枚方・交野周辺も治める河内守になった敬福はなぜ河内の北部にある枚方に移住したのでしょう。古代史と繋がる歴史の秘密がありそうです。

◇2度の遷都(せんと)を行った桓武(かんむ)天皇と深いつながり
敬福の活躍で名声を上げた百済王氏。その後も敬福の孫の明信(みょうしん)が桓武天皇の側近である女官長となるなど上級官人を多数輩出。桓武天皇は母親が百済系氏族の「和氏(やまとし)」出身だったこともあり、「百済王らは朕(ちん)の外戚」と言うほど信頼を寄せていました。文献には桓武天皇がたびたび枚方がある交野郡で鷹狩りや天神を祭る儀式を行った記録が残されています。

■百済寺跡はなんと!国宝級
◇薬師寺と同じ2塔1金堂だった
百済寺跡の調査が始まったのは昭和7年。現在までに本格的な発掘調査が3回行われ、その姿が少しずつ明らかになってきました。伽藍(がらん)配置は薬師寺や東大寺と同じ2塔1金堂式で、基壇の石組みなど当時最先端の技術が使われており、官寺に匹敵する格の高さをうかがい知ることができます。

百済寺跡は昭和42年、日本で初めて史跡公園に。現在、令和5年度の完成を目指して再整備を進めています。東塔は当時の基壇を再現する一方、西塔は礎石をそのまま残すことで往時をしのばせる工夫が凝らされています。

井戸「特別史跡といってもピンと来ないと思いますが、遺跡の中の「国宝」に当たるんです。これが枚方にあるってスゴいことなんですよ!建設当時の礎石に触れてみましょう!」
タカシ「これが塔の柱を支えていたんですね〜。」
本田「古代にタイムスリップしてしまいそうです。」

塔を支える基壇には生駒山系の石が使われていたようです。礎石の大きさや位置から高さ約25メートルの三重の塔だったと考えられています。

■校舎の下に眠る遺構が教室に
常翔啓光学園中学校・高等学校 ミューズギャラリー(禁野本町1)

◇井戸
直径約1.5m、深さは推定5m以上の井戸が発掘。生活用水として使用していたと考えられています。丘の上で水脈を当て、大きな井戸を作ることができるのは高度な土木技術や知識を持っていた証と言えます。

◇住居の柱
8世紀後半ごろこの場所に建っていた「掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)」と呼ばれる住居の柱跡をタイルで再現。柱跡を結ぶと2間×4間(約4.8m×7.8m)になり大きな建物があったことが分かります。

◆歴史を語り継ぐのは教育機関の責務
◇常翔啓光学園中学校・高等学校 吉村仁志 校長先生
校内に遺跡が見つかったのは9年前、新校舎の建設現場でした。遺跡は発掘調査が終わると埋めてしまうため、教育機関の責務として「地域の歴史を語り継がなければいけない」と思い、遺跡があった場所がわかるように新校舎にデザイン化しました。
学校の住所でもある「禁野」の由来は、かつてこの辺りには天皇の狩猟場があり一般の民の狩りが禁じられたためと言われています。この地の歴史を「教科書の中で起こったこと」ではなく、とても身近なものとして生徒たちに感じてもらいたいですね。

◆百済王氏による計画的なまちづくり
常翔啓光学園中学校・高等学校の調査は平成21年・28年の2回実施しました。50cm~80cmの地下に奈良時代の地面が埋まっていて、掘立柱建物や井戸、溝の跡など宅地の跡を発見。これらは百済寺やそこから延びる道とほぼ同じ方位をとっており、百済王氏が計画的にまちづくりを行ったものと考えています。それを裏付ける遺跡がさらに他の場所で見つかっているんです。次はそこへ!

■まるで平城京!碁盤の目のまちが眠っている
◇禁野本町(きんやほんまち)遺跡
百済寺跡から北に広がる奈良時代~平安時代中期の遺跡。これまで230回に渡る数多くの発掘調査を行い、各所で建物や井戸、道路などの跡が多く見つかっています。街区と百済寺の方位などの共通性の高さから、百済寺を基点に平城京のような方形街区(碁盤の目のように敷かれた道路で形づくられたまち)が形成されていたのではないかと考えられています。

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