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幕末余聞 天狗と魁30

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作・大堀一志
挿絵・廣江貴子

揖斐はかつて揖斐藩三万石を領する城下町であった。その後、天領となり旗本岡田善同(よしあつ)が本陣となり五千三百石で維新まで続く。従って、ここは宿場町ではない。このような大人数を受け入れる宿がなく大騒動になる。本陣・脇本陣はもとより寺・商家・大農家などを開放して何とか分宿することになった。加えて、大垣藩の軍勢がここを攻めてくるという風聞(ふうぶん)に町中が殺気立ち、一晩中篝火(かがりび)を焚き交代で見回りに出るという大変な騒ぎとなった。
その夕刻、天狗党の幹部が止宿している本陣を一人の男が訪ねていた。名を棚橋衡平(たなはしこうへい)という。彼は揖斐本陣岡田家の家臣ながら、かつて京に遊学し勤王の志士たちとの交流があった。棚橋は血気にはやる天狗党の軍勢を食い止めることは無謀であると考え、無益な血を流すことを防ぐため進んで開放して、そのうえ軍資金を提供し速やかに立ち去ってもらうことを提案し自ら交渉役を買って出たという。
この時の資料が残されている。それによると揖斐本陣から天狗党に渡された軍資金は六百両であったという。

揖斐を出た天狗党は坂内村から八草峠を越えて木之本に出て、琵琶湖の東岸を南下して大津、そして京へと目論んだ。彼らが目指すのはあくまでも京であった。どんなに回り道をしても京に辿りつき、そこに居られる将軍後見役の一橋慶喜公に目通りして尊王攘夷の熱い志を伝えることが唯一の目的だったのである。
―つづく

【これまでのあらすじ】
元治元年(1864)12月1日。京を目指していた天狗党は加納藩との戦いを避け、犬山街道を進んだ。長良川を越え中山道に戻ろうとするが、大垣潘に行く手を阻まれ、やむを得ず西へ進み揖斐にたどり着いたが…

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