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《特集》慶長5年、那須の緊張(2)

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栃木県大田原市

■3 大田原城と黒羽城の防備態勢
奥州との境目に位置する重要な要害としては、芦野城・伊王野城・大田原城・黒羽城・烏山城(城主成田泰喬(なりたやすたか))がありました。その内、前二者は対上杉の前哨、後三者は主たる防御拠点と位置づけられていました。
当初徳川氏は、6月ないし7月中旬頃までの段階では、会津攻めの前線拠点を宇都宮城から順次大田原・黒羽両城に移し、前者に家康、後者に秀忠が入城することを想定していたことが窺(うかが)えます。
奥州境の情勢について徳川秀忠に報告していた大田原晴清は、6月22日付秀忠書状を受けて、奥州方面への人々の通行を禁止すべきことを要請されています。また、同月には、大田原城を修築するため石川重次(いしかわしげつぐ)(徳川譜代の家臣)・内藤忠清(ないとうただきよ)(同)が奉行として遣わされ、援軍として皆川広照(みながわひろてる)(下野国皆川1万3千石)・皆川隆庸(たかつね)(広照の子)・服部半蔵正就(はっとりはんぞうまさなり)(5千石、伊賀同心の頭)が派遣されました。7月末には、徳川氏の命により、那須資景・福原資保・伊王野資友(すけとも)(資信の子)・岡本義保(おかもとよしやす)・大田原増清(ますきよ)(晴清の弟)ら那須衆が同城の守備に加わっています。さらに、同城に対しては、徳川氏から鉄砲10挺が預けられています。
黒羽城にも修築の手が加えられるところとなり、6月、榊原康政家臣伊奈主水(いなもんど)が奉行として派遣され、防御能力が強化されました。この時、新たに四つの門が建立(こんりゅう)となり、その内の黒門は、城の大手門という性格を有する入母屋(いりもや)屋根の櫓(やぐら)門で、秀忠本陣としての格式が整えられたものと考えられます。
黒羽城への援軍としては、岡部長盛(おかべながもり)(下総国山崎1万2千石)が本丸、服部保英(やすひで)(下総国内3百石、伊賀同心の頭)が二の丸に配され、城主大関資増は千本義貞(せんぼんよしさだ)(那須衆)と共に三の丸に籠城。同城に対しても、徳川氏から鉄砲15挺が与えられています。
水谷勝俊(みずのやかつとし)(常陸国下館2万5千石)は、初め黒羽城に加勢として入城したようですが、後に大田原城の皆川広照と共に鍋掛(那須塩原市)の要害に前進配備されています。成田泰喬も、烏山城を守りつつ、鍋掛要害にも配備されていました。

◇用語解説
・出仕 政権所在地に出向いて政権に仕えること。
・転封 権力者の命令で本拠や領地を他に移すこと。
・徳川譜代 徳川家康直属の家臣。
・外様 関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名のこと。
・畿内 京都に近い国々。
・拝謁 身分の高い方に面会すること。

■4 徳川氏への忠誠表明と情報収集活動
那須衆は、徳川氏への忠誠を表明するため、8月1日~11日頃に、自身の母・妻や一族・家臣、あるいは一族・家臣の妻・娘といったかけがえのない人たちを江戸城に人質として送っています。彼ら人質たちの生活については、徳川方から相応の配慮がなされていたものと考えられ、後に大関氏が幕府に提出した史料からは、彼らが翌慶長6年(1601)に国許(くにもと)への帰国を許されたことが判明します。
この時期、黒羽城は上杉領についての情報収集所という性格を担っており、同城には伊賀・甲賀の同心も入城していました。黒羽城からは白河方面へ密偵が派遣されており、大関資増も伊達政宗(だてまさむね)家臣鈴木重信(すずきしげのぶ)に書状を送り、上方へ宿老(しゅくろう)の松本惣左衛門(まつもとそうざえもん)を派遣するなどして、情報収集に尽力していました。
関ヶ原合戦(9月15日)での東軍(徳川方)勝利の事実を那須衆に伝えた第一報は、大関資増宛ての9月19日付浅野長政書状で、これは9月中には資増の許に届いていたと思われます。大関氏は、このような上方方面に関する入手情報を他の那須衆や成田氏(烏山城主)らに伝達・周知化していたものと考えられます。大関氏は、情報収集に努めることで、自らが身を置いている危機的な局面を打開し、活路を見出そうとしていたのです。

■5 関山(せきさん)合戦とその後
関ヶ原合戦に連動する形で、全国的に戦闘が起こっており、那須地域周辺においても、小規模ながら軍事衝突が起こることとなりました。9月14日から翌日にかけて、関山(福島県白河市)およびその周辺で上杉軍の一派と伊王野勢との間で合戦となり、伊王野勢は39名の犠牲を出しつつも、上杉勢を撃退したと伝えられています。上杉勢侵攻の報に接した大田原・黒羽両城では、後詰(ごづめ)(後陣(こうじん))の手配を行うも、戦闘は拡大せずに終息しました。
大関資増は9月14日までに、8月21日からの東軍先発隊による岐阜城攻略戦についての一定程度の情報(東軍有利の情報)を入手していたと考えられます。それゆえ伊王野氏は、大関氏経由で同様の情報を得た上で、最上(もがみ)氏(山形方面)攻めを開始した上杉氏の背後を牽制するべく、関山合戦に臨んだ可能性があると言えるでしょう。
関山合戦終息後も、上杉氏重臣直江兼続(なおえかねつぐ)が関東方面に軍事行動を起こすとの風説もあり、結城秀康・蒲生秀行(がもうひでゆき)(宇都宮城主)・那須衆らは、昼夜のない防備態勢をとり続けました。那須衆はこの間、上方に使者を派遣したり、書状を送付するなどして、徳川方と音信を通じさせていました。そうした中、慶長6年(1601)5月には、黒羽城に対して徳川方による関山ないし白河方面への改めての軍事行動が予告されるところとなりました。いまだ那須地域は、上杉軍との間で軍事的緊張状態にあったのです。
那須衆と上杉軍との対陣が続く中、一方では、慶長5年10月下旬から始まっていた上杉氏と徳川氏との和睦交渉が続いており、翌6年6月には和睦が成立します。
7月、上杉景勝は直江兼続と共に京都へ向かい、8月には伏見城で家康に拝謁し、上杉氏の米沢(山形県米沢市)への転封および30万石への減封(げんぽう)が決定します。
そうした中、慶長6年7月、大田原・黒羽両城に入っていた援軍が退去しました。彼らの退去を待って、那須地域の軍事的緊張状態は、解消されるところとなったのです。

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