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《特集》慶長5年、那須の緊張(3)

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栃木県大田原市

■6 論功行賞(ろんこうこうしょう)
関ヶ原合戦以前と同様、大坂城西の丸を本拠とした徳川家康は、諸将に対する戦後処理・論功行賞を逐次発表していきました。西軍に加担した諸大名からの没収総石高は、改易(かいえき)・減封を合わせて624万石余、豊臣蔵入地(くらいりち)の削減分も含めると約780万石となり、全国総石高の約40パーセントに相当しています。これらは、豊臣系諸将への大幅な加増と徳川陣営の防衛体制強化に活かされることになりました。
大関氏宿老松本惣左衛門が入手した大関資増宛ての、慶長5年と考えられる10月晦日(みそか)付久代景備(くしろかげはる)書状には、毛利輝元(もうりてるもと)・福島正則(ふくしままさのり)・細川忠興(ほそかわただおき)・山内一豊(やまうちかずとよ)・島津義弘(しまづよしひろ)・前田利長(まえだとしなが)・堀尾忠氏(ほりおただうじ)への処遇・論功行賞について記されています。長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が関ヶ原合戦後の土佐(高知県)に帰国後、慶長5年10月下旬まで東軍方に対して強硬な姿勢を堅持していたことにより、土佐はいまだ山内一豊へ与えられる状況には至っておらず、本書状からは、この時点で徳川氏が一豊に伊予(いよ)(愛媛県)を与えることを検討していたことが判明します。
那須衆に対する論功行賞は、慶長5年および同7年の2度にわたって行われ、加増がなされました。この加増は、徳川家康の命により、本多正信(ほんだまさのぶ)・大久保忠隣(おおくぼただちか)の名前をもって行われたと考えられますが、慶長5年の給付は、上杉軍の押さえという働きをするに当たっての当座の配当であり、同7年の給付に比して少額でした。慶長7年の給付は、那須衆からの人質差し出しも勘案した上での、有力家臣も対象とした本格的な加増となり、本多正信・大久保忠隣の連名で大田原晴清・大関資増宛てに、「那須衆知行高覚(ちぎょうだかおぼえ)」と題された覚書が送付されています。那須衆には那須郡・芳賀郡(宇都宮領他)・陸奥国白川郡(岩城領)内などで所領が給付され、那須資景は1万4千石余、大田原晴清は1万2千4百石余、大関資増は1万9千2百石、福原資保は4千4百石などとなりました(最終的な石高については、後に変化があります)。

■おわりに
この時の論功行賞は、基本的に幕藩体制下での那須衆の政治的地位を決定付けることになりました。大関・大田原・那須の3家(後に2家)が大名として位置付けられたのに対し、福原・芦野・千本・伊王野・岡本・大田原(増清)・千本(資勝(すけかつ))の7家(後に4家)は、旗本(交代寄合(こうたいよりあい))となります。
その内の大関・大田原両氏は、関東の外様大名としては珍しく、江戸時代を通じて改易・転封を経験することがありませんでした。その要因としては、関ヶ原合戦の際の働きが評価されていたことや、この時期に徳川氏との間で密接な関係を築いていたことなどが考えられるでしょう。

◇用語解説
・要害 敵を防ぐための拠点となる、城郭などの施設。
・国許 生まれた土地、故郷。
・減封 領地の一部を削減すること。
・改易 領地などを没収すること。
・加増 領地などを増加すること。
・論功行賞 功績の大小を調べて、それに応じてふさわしい賞を与えること。

問合せ:黒羽芭蕉の館
【電話】54-4151

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