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壷中雑記(2)―歴史文化博物館から―

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滋賀県愛荘町

■目加田城の今
戦国時代、日本の各地に様々な城が築かれました。愛荘町にも多くの城が建てられましたが、今はその姿を残すものはありません。
愛荘町にかつて存在した城の足跡を辿ってみましょう。

▽愛荘町の城跡
多くの宅地が並ぶ目加田の集落の中に、一つの公園があります。公民館の裏に存在するその公園は、現代に残る戦国時代の遺跡です。
戦国時代、各地の武将は自らの権威を表すため、また居住地・軍事拠点として城を建てました。城といって思い起こされるのは、彦根城のような瓦葺で石垣を持つ建造物でしょう。愛荘町にはいくつかの城跡が存在しますが、そのほとんどが当時の面影を残していません。その中でも当時の痕跡を残す城、それが今回の主人公「目賀田城」です。
現在は史跡公園となっている目賀田城とは、どのような城だったのでしょうか。

▽目賀田城を知る
目賀田城は佐々木六角氏の重臣の目加田氏によって築城されました。目賀田城は本来、目賀田山(現・安土山)に築かれていました。天正四年(一五七六)に織田信長が目賀田山に城を築く際に土地を譲り、本領地の目加田に新たに築城したのが始まりです。もとは平地に造られた方形の平城で、居館という日常生活に重きを置いた城でした。
目賀田城跡を訪れると、四つの小山があります。これらは土塁という城を守る防壁です。土塁を作る際の大量の土は、水堀を掘る際に出た土だと考えられます。水堀は発掘調査で確認されており、堀を埋めていた土には近世の陶磁器や瓦が含まれていました。
土塁は本来、城を囲うように作られるものですが、目賀田城に残っている土塁は一部だけです。土塁は近世に削られ、その土で水堀は埋められました。

▽目賀田城主の歩み
目加田氏は、六角氏の家中での内紛を機に浅井長政に付き、浅井氏が織田氏によって討たれると織田氏に従いました。この時期に現在の場所に目賀田城を築きました。本能寺の変で織田氏が明智光秀に討たれた際に目加田城に戻るも、そこは既に明智勢一色となっていたことから、明智氏に従うことになりました。山崎の合戦で明智氏が羽柴秀吉に討たれると、羽柴氏に捕らえられます。目加田氏は羽柴軍にいた旧知の武将による助命運動によって死を免れ、羽柴氏の朝鮮出兵にも従軍しました。しかし、羽柴氏の怒りは収まらず、領地は没収され、目加田氏が目賀田城に戻ることはありませんでした。

愛荘町には目賀田城以外にも、歴史を感じられる場所が多くあります。いつも通る道や公園も、歴史の舞台だと考えながら行ってみてはどうでしょうか。
結構面白い発見があると思いますよ。

歴史文化博物館学芸員・山本剛史

参考文献:
城郭談話会二○一七「目加田城」『図解近畿の城郭IV』戒光祥出版大字目加田字誌編纂委員会一九九八「第二章目賀田城」『目加田誌上』
秦荘町立教育委員会二○○六「目賀田城跡(V)」『秦荘町・町内遺跡発掘調査報告書VII』

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