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空想のふくおか《第4回》幻の博多城 天正15(1587)年の空想

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福岡県福岡市 クリエイティブ・コモンズ

この連載では、かつて構想された、さまざまな都市計画などを紹介していきます。

皆さんは、1582年の本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え、さまざまな戦に参加した糟屋(加須屋)武則という人物をご存知でしょうか。彼は、福島正則や加藤清正と共に「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍(やり)」に数えられた人物で、秀吉の天下統一事業として1586年から翌年にかけて行われた九州平定にも従軍していました。
糟屋は、薩摩国の戦国大名・島津義久が秀吉に降伏した直後に、鹿児島にいる秀吉から朱印状で命令を受けました。それは「手が空いたら、博多へ移動し、城の普請(工事)を行え」というものでした(「新編会津風土記」巻三)。
当時の博多は、戦乱で荒廃していました。朱印状には「高麗国へ人数(軍隊)を差し向けて成敗する」とあります。目的は、博多のまちを復興させて朝鮮出兵のための拠点とすることだったと考えられます。博多は、古くから貿易港として栄え、対外的な窓口となっていました。大量の兵器や物資を集積するのに便利だったこともあり、城を造り、それを軸に博多のまちを復興させる狙いだったのでしょう。結局、「太閤(たいこう)町割り」によって博多は復興を遂げ、城は築かれることはありませんでした。
秀吉は、後に名護屋城(佐賀県唐津市)を築城します。なぜ出兵の拠点が博多から名護屋に変更されたのか、具体的な記録は残っていませんが、朝鮮半島により近い位置にあること、リアス式の入り組んだ海岸で多くの船を止めることができる地形だったことなどが、主な理由だと考えられています。小さな漁村だった名護屋は、全国から集まった諸大名や兵士・商人でにぎわい、当時は大阪に次ぐ第二の都市といわれるほど大きな城下町として繁栄しました。
名護屋城は、五重の天守を備えた立派な城でした。このような立派な城が博多に築かれていたかもしれないと考えると、なんだかワクワクしてきませんか。
(市博物館市史編さん室 八嶋義之)

◆名護屋城は、南北が450メートル、東西は600メートル、総面積は17万平方メートルを超える規模と推測され、高さ15メートルに及ぶ石垣で囲まれた壮麗な城だった。本丸からは金箔(ぱく)の瓦も出土している。本丸を中心に渦巻き状に二の丸、三の丸、東出丸、遊撃丸、弾正丸などが配置され、それぞれを経由しないと本丸までたどり着けない造りになっていた。秀吉の死後、廃城となり、現在は石垣だけが残る。

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