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足もとに未来をみつめて 第10回 おらほの学校-ならは小学校史(抄)-

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福島県楢葉町

間もなく、町内で学校を再開して2回目の卒業式を迎えます。仮設校舎での学校生活を感慨深く思い出す卒業生も多いかもしれません。また、今年の中学校卒業生は、発災時、小学1年生でした。かつての学び舎である北小学校、南小学校を覚えている子供たちが少なくなっています。復興に向かって突き進む一方、一抹の寂しさも感じます。今月は、町の小学校の歴史を振り返ってみます。

■北小学校のあゆみ
明治初年、いまの楢葉町には、ほぼ現在の大字に相当する村々が存在していました。そんな中、明治6年、井出・北田・下繁岡村の本校として、井出小学校が設置されます。その後、大谷村と上繁岡村にもそれぞれ小学校ができますが、井出小学校に一本化され、明治22年の町村合併を機に竜田尋常小学校(4年制)が誕生します。
歴史を紐解くと、各村々で費用を出し合い、「おらが村の学校」を維持してきた先人の熱意が感じられます。明治20年頃の井出小学校の児童数は、300人程度。綴り方・算術・修身・唱歌・体操などを学んでいました。

■南小学校の歴史
南小学校の前身である誠材(せいざい)小学校は、明治6年、上小塙・下小塙・山田岡・山田浜・前原村の本校として、木戸郵便局があった付近に開設されました。児童の増加によって、校舎の移転が繰り返され、現在地に建てられたのは大正2年のことです。木戸尋常小学校について特筆されるのは、近隣ではかなり早い時期に高等科(4年制)が設置されたことで、竜田村や広野村など他村からの通学者も受け入れていました。
当時の児童は、自家製の着物に草履ばき、教科書やそろばんなどを風呂敷に包んで通学しました。それでも、学校に通うことができる子供は恵まれた家庭の子でしたし、その多くが小さい子を背負って通学するのが当たり前の時代でした。

■おらほの学校
国民皆学の精神を掲げた明治政府によって、従来の寺子屋などの個人教育は、公的教育へと変化、管理され、近代国家にとって有為な人材を生み出す「教育」が国の基とされました。ところで、過去、楢葉町には、上繁岡・大谷・乙次郎・所布・沢道・女平・大坂、七つの分校があり、このことからも教育を第一とする地域性がうかがわれます。とは言え、理想だけでは、学校建設や維持費用、先生の給料の支払いはままならず、県や村、父祖、児童本人の負担で成り立っていました。まさに、「おらほの学校」だったと言えます。
さて、教育が「義務」となった現代ですが、昔も今も地域の人たちの努力が学校を支えていることに変わりはありません。現在、楢葉町は、将来町を担う人材を育てるという観点から「日本一の教育」を表明しています。子供たちが、先人や地域の方々によって自分たちの学校があることを自覚し、地域もまた、子供たちを我が子のように慈しむことができる社会の再構築を目指しています。

◎楢葉町歴史資料館

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