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ふるさと見て歩き 第130回

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茨城県常陸大宮市

■ダムに沈んだ製銑場 相川鉄山(あいかわてつざん)跡
平成24年(2012)、常陸大宮市初の人工ダムである御前山ダムが完成しました。現在は市の観光地となっているこのダムですが、その水底には沈んでしまった土地の歴史が存在していました。そこで今回は、そうした歴史の一部を紹介していきます。

○相川鉄山の歴史
下伊勢畑地区相川には、かつて銑鉄(せんてつ)(1)の製銑場(せいせんじょう)が水戸藩によって設けられていました。字カブレ屋敷に所在していたその工場は、相川鉄山という名称で今日まで伝えられています。
相川鉄山は、赤沢鉄山(旧赤沢村、現在の城里町御前山に所在)の分工場として幕末期に操業を開始しました。当時、水戸藩では異国船に対する防備(海防)が叫ばれており、那珂湊で反射炉が造営されたことを契機に、大砲や銃器の製造が盛んになりました。こうした背景から、武器の製造所に原料となる銑鉄を供給するための施設が必要となり、その候補地として、運搬に便のよい那珂川沿岸で、かつ燃料となる松や木炭(桧炭)の補給が容易である御前山一帯の地域が選ばれたと考えられます。
赤沢鉄山の稼働時期については、関沢賢家文書(茨城県立歴史館蔵)の安政5年(1858)「日記」1月24日の記述に、「昨冬ゟ製方初候処(さくとうよりせいほうはじめそうろうところ)」と記されていることから、安政4年(1857)冬に開始したことがわかります。そのため、相川鉄山も同時期もしくはやや遅れて稼働した可能性が高いと考えられます。しかし、いずれも明治初頭の時点では既に閉鎖していたとみられており、終了時期に関しては諸説(2)あります。
なお、関沢家の「日記」には、明治5年(1872)7月15日に明治政府のお雇い外国人であるゴッドフレー鉱山師長や津田弘道ら工部省鉱山寮の役人計13名が、下野(栃木県)から岩城(福島県)へ向かう鉱山巡視の道中に野口村を訪れたという記述が確認できます。その折、付近にある相川鉄山や赤沢鉄山を確認した可能性も考えられるので、今後も調査を進めていきたいと思います。

○製銑場の実態
赤沢鉄山・相川鉄山が主な業務とした製銑(せいせん)とは、原料の鉄鉱石や砂鉄を高温で溶解し、銑鉄を取り出すものです。相川鉄山では、原材料となる砂鉄を磯浜村・大貫村(現在の大洗町)から舟で運び、相川との合流点で陸揚げした後に、製銑場まで運んだと考えられます。工場には全国各地から多くの労働者が集まり、中には、越中国(現在の富山県)から出稼ぎに来ていた労働者が伊勢畑の農家へ婿養子として入った事例もあったそうです。しかし、その一方で地元農民の負担は重く、小舟村では、赤沢鉄山で使用する大量の燃料として、御立山(おたてやま)(藩有林)や分付山(ぶんづけやま)(民有林)の松木が続々買い上げられ、その結果、山は荒廃し、紙漉きの原料となる楮を煮る燃料に困るなど、彼らの日常生活にも多大な影響が及びました。

○相川鉄山のその後
相川鉄山の閉鎖後、施設は解体され、跡地は水田として使用されました。その周辺からは多くの鉄滓(てっさい)が出土しており、その一部は実際に使用された道具である鞴(ふいご)(3)と共に市教育委員会へ寄贈され、今日に至っています。
相川鉄山跡がダムに沈んでから今年で8年が経過します。しかし、残された物から、その痕跡を今なお伺うことができます。

註:
(1)高温の炉で生産される純度の低い鉄。
(2)万延元年(1860)説、明治4年(1871)説がある。
(3)火力を強くするために用いる送風装置のこと。
参考文献(一部):
・御前山郷土誌編さん委員会編『御前山村郷土誌』1990年
・桂村史編さん委員会編『桂村史通史編』2004年
・常陸大宮市文書館編『常陸大宮市近世史料集(八)御前山地域編2.』2017年

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