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常陸大宮市史編さんだより Vol.46

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茨城県常陸大宮市

■頼朝を叱ったTough Guy(タフ ガイ) 岩瀬与一太郎の故郷(ふるさと)
高橋修氏
編さん委員長(古代・中世史部会長)
茨城大学教授

金砂山での戦いで、佐竹氏が頼朝軍に敗れた直後、頼朝の前に、捕縛された「佐竹家人」10数人が引き立てられた。その中の一人が激しく啼泣(ていきゅう)している。
頼朝「なぜそんなに泣いているのだ?」
男「(常陸国府の大矢橋で騙し討ちにあった主人)佐竹義政のことを想うと、自分が生きていることが申し訳ないのです」
頼朝「そう思うのなら、なぜその時主人とともに命を捨てなかったのだ?」
男「頼朝さまにお会いして申し上げたいことがあったのです」
頼朝「申してみよ」
男「頼朝さまの敵は平家ではないのですか?なぜ罪のない同じ源氏の一族・佐竹氏を討ったのですか?今後、頼朝さまの敵はいったい誰が退治するのでしょうか?頼朝さまのご子孫は誰が守護するのですか?今はあなたの威勢に押されてみんな従っているだけですよ!」
頼朝「・・・」(無言で退席)
その後、上総広常が「即刻、首を刎(は)ねましょう」と進言するが頼朝は制止し、そればかりかこの男の罪を許して御家人(ごけにん)の列に加えた。この男こそ岩瀬与一太郎であった(『吾妻鏡』より)。
与一太郎に関する同時代史料はこれが唯一です。その本領について、これまで私たちは当たり前のように久慈西郡岩瀬郷(市内上岩瀬・下岩瀬)と思ってきました。ところが近年、中世史研究の大家たちが、与一太郎の出身を中郡荘岩瀬村(現在の桜川市)とみなす論文や著書を相次いで発表したのです。彼らの説は、史料的裏付けを欠き、または史料の誤解により導かれたものですが、放っておけば誤った歴史像が定着してしまいます。そこで与一太郎の本領を、きちんと確定しておくことが必要になりました。
上岩瀬・下岩瀬周辺には、今も多くの与一太郎の伝承が残ります。誕生寺の境内に遺構をとどめる上岩瀬城は与一太郎の居城と伝えられ、加藤寛斎の『常陸国北郡里程間数之記(ひたちのくにほくぐんりていけんすうのき)』にも記述があります。下岩瀬の春日神社も与一太郎が信仰したことを伝えています。久慈川西岸の根本や泉、岩崎などには連なるように春日社が鎮座しています。藤原氏の氏神・春日明神信仰とかかわりが深い武家は、将門を斃した藤原秀郷の子孫です。佐竹氏に宿老として仕えた小貫氏が所持した系図には、秀郷流藤原氏の流れを汲むこと、与一太郎が小貫郷を与えられたことなどが語られています。中世、子孫として与一太郎伝説を管理したのが小貫氏だったのです。
もちろん一次史料により確定できるわけではありませんが、市内の与一太郎伝承が、確実に近世以前にさかのぼり、中世、それを管理した主体が小貫氏だったことは、与一太郎の本領を久慈西郡岩瀬郷と確定する上で大きな成果と言えると思います。

高橋修先生による岩瀬与一太郎の詳細な研究成果につきましては、3月に刊行された『常陸大宮市史研究第3号』に掲載されています。興味のある方はぜひご覧ください。
※歴史民俗資料館と文書館で販売中(1冊700円)

問い合わせ:文化スポーツ課 文化・スポーツグループ
【電話】52-1111(内線344)

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