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郷土史への扉 明治維新と霧島 その4

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鹿児島県霧島市

◆明治維新と敷根火薬製造所

今年は明治維新百五十年の節目の年です。今回は、幕末から明治維新期にかけて起きた戦争の軍需物資(火薬)の供給を担った「敷根火薬製造所」について紹介します。
〇外国の脅威に備え
一八四〇年に起きたアヘン戦争で、イギリスが清国(中国)を破り植民地化したという情報は、支配していた琉球を通して刻々と薩摩藩に入ってきました。薩摩藩は、迫り来る列強の脅威に危機感を強めていきます。
このような時期に薩摩藩主となった島津斉彬(なりあきら)は、藩や日本の軍事力強化を目指し製鉄、造船、工芸、武器弾薬などを工業化する集成館事業を進めます。
敷根火薬製造所は薩英戦争が起きた文久三(一八六三)年、滝ノ上(たきのかみ)火薬製造所(鹿児島市稲荷町)の分局として建設されます。イギリス人技師・ウォートルスが建設に関わり、最新式のタービン水車などを導入した、全国で最先端の火薬工場でした。

〇歴史を変えた工場
製造所では、最盛期に百二十人の工員が働き、年間二十四トンあまりの火薬を生産していました。明治維新期には大きな戦いが繰り広げられ、中でも戊辰戦争における東北での薩摩の軍事力は際立っていました。その力の源は敷根の火薬であり、まさにこの火薬工場が明治維新を支えていました。製造所は明治四(一八七一)年の廃藩置県以降、政府の管轄となります。明治十(一八七七)年二月、西南の役が勃
発(ぼっぱつ)すると、政府軍は西郷軍への弾薬補給を断とうと動きます。
三月十日、政府軍の軍艦・春日(かすが)が敷根沖に達すると、製造所は指揮官・伊東祐麿(いとうすけまろ)らによって焼き払われ、わずか十五年の操業に幕を下ろしました。皮肉にも軍艦・春日は慶応三(一八六七)年に薩摩藩がイギリスから購入した船でした。

〇火薬製造所のその後
火薬製造所は無くなりますが、水車小屋は民間に払い下げられ、昭和二十年代までは精米・製粉工場として利用されていました。現在、水田や山林となった製造所跡には所々に石垣が残り、水車を回すための導水路は農業用水路として利用されています。第一水車跡はとても良好な状態で残っており、今でも見ることができます。洋式の製法を取り入れた敷根火薬製造所は、世界文化遺産となった磯(鹿児島市)と並び、我が国の近代工場の礎(いしずえ)の一つとなっています。そこで、県立埋蔵文化財センターは平成二十七年度から二年間、「かごしま近代化遺産調査事業」の一環で製造所跡の発掘調査を実施しました。
その結果、水路や石垣などが良好な状態で発見され、鹿児島市立維新ふるさと館が所蔵している『敷根火薬製造所絵図』と合致する遺構が確認できました。さらに施設の遺構が全体的に良好な状態で埋蔵している可能性も出てきました。今後のさらなる調査が期待されます。
(文責=鈴)

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