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【郷土史への扉】熊襲(くまそ)伝説

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鹿児島県霧島市

古代の南九州の人々「隼人」と一緒に語られる存在として「熊襲(くまそ)」があります。熊襲とは一体どのような存在なのでしょうか。

◆物語上の存在
熊襲は『古事記』『日本書紀』では、隼人より前に南九州に住んでいた豪族とされています。朝廷に背き、第12代景行(けいこう)天皇やその息子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に征伐される存在として描かれています。女装して熊襲の頭領・川上梟帥(かわかみたける)を征伐した勇敢さから「日本武尊」の名前をもらったという話は特に有名です。
熊襲の名前の由来は諸説あります。その一つを挙げると「襲(そ)」は霧島山周辺の地名で、現在の霧島市域辺りだと考えられています。
隼人と熊襲は一緒に語られますが、隼人は実際に存在した人々だとされます。一方で、熊襲は物語上で作られ、実在していなかったと考えられています。朝廷が『古事記』『日本書紀』を編さんしていた時期に、隼人と朝廷が度々軍事衝突していたため、隼人をモデルに創作された、朝廷が征伐すべき仮想の敵だったのです。

◆各地に残る熊襲の伝説
実在していなかったとされる熊襲ですが、江戸時代には隼人と熊襲の物語が一緒になって、さまざまな言い伝えとして語られるようになりました。
江戸時代の薩摩藩の様子をまとめた『三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)』や『麑藩名勝考(げいはんめいしょうこう)』などには国分上小川の拍子橋(ひょうしばし)の伝説が描かれています。朝廷の征伐に遭い、隼人城(国分の城山)に立てこもる熊襲の頭領。日本武尊は舞を踊って、熊襲の頭領を誘い出し討ち取りました。その橋で舞の拍子をとったことから、拍子橋の名が付いたとされています。
殺された熊襲は、四肢をもがれて四肢神社(国分野口にある枝宮神社)に埋めて祭られ、弓矢などは国分福島に埋められたという話もあります。
このほか郷土誌には、熊襲に関する各地域のさまざまな伝説があります。隼人町の妙見にある「熊襲穴」は熊襲の住んでいたところとして有名ですが、国分の城山や牧園の塩浸辺りにも熊襲の洞穴といわれている場所があります。
熊襲征伐にやってきた日本武尊がまず上陸したのが若尊鼻(わかみこばな)であり、川に高い橋を架けて渡り(高橋川)、木の根を敷いて寝た(敷根)という話もあります。
牧園には日本武尊が使った城や、勝利の祝宴を開いた場所(祝橋(いわいばし))の伝説もあります。ほかにもさまざまな地名の由来として熊襲や日本武尊の名前が出てきます。
地名の「隼人」の由来になった「隼人塚」を明治時代の人々は「熊襲塚」と呼んでいたという話もあります。昔から混同され、今でも一緒に語られることが多い隼人と熊襲。今年は大和朝廷の一方的な支配に対する隼人の抵抗から1300年に当たり、大きな節目を迎えます。実在したとされる隼人と物語の中の存在である熊襲の違いにも注目してはいかがでしょうか。
(文責:小水流)

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