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〔おみたまTOPICS〕小美玉市の歴史を知ろう51

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茨城県小美玉市

■佐久皥民(さくこうみん)―江戸時代の学びと竹原の教育者―
現代の学校では、どのような教育が行われているでしょうか。小学校を例に見ると、国語、算数をはじめとする教科や、総合的な学習の時間、近年新たに始まった外国語活動など、教育内容は多岐にわたります。
生徒が一堂に会し勉学に励む、今日の学校風景の源は、江戸時代に遡(さかのぼ)ります。今回は、江戸時代の学び(学校・教育)と、竹原の教育者の一人である佐久皥民をご紹介します。

■江戸時代の学び
江戸時代の学校には、藩士の子弟が通う藩校、郷士などが通う郷校(ごうこう)、そして私塾(しじゅく)、寺子屋がありました。
庶民教育の主流であった私塾や寺子屋は個人での設立が可能で、自宅やお寺の本堂などが学びの場となりました。市内の主な私塾は、小松塾(上玉里)、女池(めいけ)塾・山口塾・滝平塾(すべて下玉里)などがあります。「東茨城郡誌」上巻には、僧侶や神官、郷士などが指導にあたり、塾の規模は7~8人から、多いところでは50~60人だったと、当時の私塾や寺子屋の様子が記されています。
庶民教育は、手習い(手本の読み書き)、習字や素読、そろばんなどがありました。教科書は往来物(おうらいもの)(模範文を教科書用にまとめたもの)が主で、実語教(じつごきょう)、童子教(どうじきょう)(訓)、女大学など内容はさまざまです。また、家業に合った教科書を用いるなど、教育内容は比較的自由でした。

■竹原の教育者 佐久皥民
「竹原村誌」に、竹原村(当時)の教育の様子や、佐久皥民について次の記述があります。
「本村(竹原村)には佐久、木村の二人の先生がおり、代々私塾を開いて子どもたちを教育した。教科書は『今川状庭訓往来(ていきんおうらい)』・『実語教』、習字は『名頭(ながしら)』・『商売往来』・『都路往来(みやこじおうらい)』などで、学科は習字と読書だけであったが、佐久皥民・木村後凋(こうちょう)の二人の先生になってからは、水戸学や経史(けいし)を教えたので身を修め家業に励む気風がおこってきた。(後略)」
皥民が専門的な教育内容を取り入れていたこと、水戸学の教えが広く知られていたことがわかります。
皥民(本名:敬直)は文化2年(1805年)に生まれた、竹原の教育者です。教えを受けた者は500人以上で、皥民と生徒の間には君臣のような信頼関係があったそうです。また、講義の声は気力がこもり明るくさわやかで、教え諭す言葉はどの子にも行き届き、深く心に刻み込まれ、感動して涙を流すこともあるほどだったといいます。
明治13年(1880年)、皥民は75歳で亡くなりました。竹原神社近くに皥民の功績を讃える碑が建っています。碑文の筆をとった佐久敬儀(憲次郎)は皥民の後裔(こうえい)にあたり、後に竹原村第7代村長になった人です。また、敬儀の長男である佐久節(みさお)は、旧制第一高等学校(現東京大学)の教授を務め、「唐詩選新釈」・「漢詩大観」なども著した漢学の権威でした。前述の「東茨城郡誌」には、節が序文を寄せました。
前述の竹原神社は、6月頃から多くの紫陽花(あじさい)が花を咲かせ始めます。
地元の方々が手塩に掛けた紫陽花たち。花芽から開花する姿は、種を蒔まき、芽を育てる「教育」と重なります。

■語句解説
実語教(じつごきょう)…人間としての生き方や教訓が書かれたもの。平安時代末期に成立し、明治初期まで普及した。
童子教(どうじきょう)(訓)…実語教よりも道徳観念を深めた生き方を説いたもの。
二宮尊徳(にのみやそんとく)も読んでいた書の一つ。
女大学…女子教育の理念や結婚生活の心得を説いたもの。江戸時代中期以降、広く普及した。
今川状庭訓往来(ていきんおうらい)…衣食など生活に関することや、身分階層・職業など社会の有様が記載された読本。最も用いられた往来物の一つ。
名頭(ながしら)…源・平・藤・橘・菅など、有名な姓氏の頭字を列記して、読み書きの教材に用いたもの。
経史(けいし)…経書(けいしょ)(儒教の基本である四書・五経書)と史書(歴史書)のこと。

問い合わせ:小川図書館・資料館
【電話】0299-58-5828

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