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コラム 忠臣蔵の散歩道~38~~

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兵庫県赤穂市

切腹の日の義士たち
~『堀内伝右衛門覚書』にみる大石内蔵助ら17人の最期~(その3)

前々回・前回に引き続き、熊本藩使番(つかいばん)堀内伝右衛門(ほりうちでんえもん)の筆記に記録された大石内蔵助ら17人の「最期」の日の様子についてご紹介します。

■元禄16年2月4日、切腹当日(つづき)
堀内が切腹直前の17人一人一人のところへ行って言葉を交わすところで、前回は大石内蔵助から近松勘六までの10人、今回は残る7人とのやりとりから触れておきましょう。

◯冨森助右衛門
「先ほど目付荒木様が大石に言われたのは、今日吉良義周(よしちか)がこのたびの仕方不届きとして領知(りょうち)召し上げ、諏訪(すわ)家お預けになったということである。この上ながら本望だ。老母のことも心に掛けていただきたい」と言い、「春帆独咲(しゅんぱんどくしょう) 冨森助右衛門」という戒名(かいみょう)と、辞世(じせい)「四日姉の忌日(きじつ)なれハ 先たちし人も有けりけふ(今日)の日を 終(つい)の旅路の思ひ出にして」の書付を渡しました。

◯潮田又之丞
「辞世(ものゝふ(武士)の道とはかりを一すし(筋)に 思ひ立ぬるして(死出)の旅路に)を加西郡北条村(現加西市)の家族に届けてくれるよう、加古川本陣中屋与右衛門に頼まれたい」。

◯早水藤左衛門
堀内が「以前細川家に仕えていた早水助兵衛の亡父と親しくしていた。助兵衛は細川家を致仕(ちし)してからは熊本の光明寺にいる。ご存じか」と問うと、「知人ではないが知っている」と答え、「地水火風空(くう)のうちより出し身の たとらて帰る元の住かに」の辞世を書いてくれた。

◯赤埴源蔵
「討入りのときにできた小疵(こきず)に難儀(なんぎ)していたが、内科・外科衆のおかげで昨日より快癒(かいゆ)した。今日上意により切腹を仰せ付けられたのは本望である。土屋相模守(つちやさがみのかみ)様(老中)に仕えている弟の本間安兵衛にこのことを知らせてもらいたい」。

◯奥田孫太夫
「内々お話していることを一類へ話してもらいたい」。そして、堀内に「切腹の仕方を知らないのだが、どのようにするのであろうか」と尋ね、堀内が「私もよく知らない。三方(さんぼう)に小脇差(こわきざし)を載せて出すと聞いている。それを引き寄せ肩衣(かたぎぬ)をぬがぬ内に三方を戴(いただ)き…」などと言っていると、冨森・礒貝らが「稽古(けいこ)などは不要で、どのようにしてもよい。ただ首をうけて討ってもらうがよい」と言うので話は止んでしまいました。

◯矢田五郎右衛門
「内々お話しているとおり、討入りのとき刀を折ってしまい相手の刀と取り替えて差した。一類の者たちは異(い)な事と思うだろうから訳を話してもらいたい。江戸町奉行松前伊豆守(まつまえいずのかみ)様の与力衆(よりきしゅう)に伯父(おじ)吉川藤次郎がいるので、くわしく話してもらいたい」。

◯大石瀬左衛門
「大石無人(むじん)とその子郷右衛門に今日の首尾(しゅび)をお知らせいただきたい」。

そして、いよいよ切腹のとき。17人は控えの座に着きます。吉弘嘉左衛門(よしひろかざえもん)・八木市大夫が一番に「内蔵助殿、御出候(おいでそうら)へ」と大石を呼んだとき、潮田が大石に「皆も追っつけ参ります」と声をかけました。
切腹が終わると、そのたびごとに「内蔵助殿首尾よく御仕廻(おしまい)なられ候」などと言っていましたが、「あの衆のことを言うのに首尾よくなどとは言う必要もない」という声もありました。
切腹は午後4時ごろ始まり、午後5時ごろに終わりました。その後、17人の遺骸(いがい)は切腹のときの衣装のまま桶(おけ)に入れられ、泉岳寺へと葬送(そうそう)されました。
その後堀内は、17人から切腹前に託された言伝(ことづて)を果たすため、各地の遺族を訪ねるなどしていますが、このことはまた別の機会にご紹介します。
(赤穂市史編さん担当 小野真一)

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