■第3回テーマ 家康と三河一向一揆・本證寺(2)
第3回は、前回に引き続き、「若き家康に立ちはだかった家康三大危機のひとつ三河一向一揆」です。
一揆勢の参加者数は、数千人から1万人と推定されていますが、全体を主導する体制が不十分だったこともあり、戦況は次第に劣勢になっていきます。
和議(わぎ)は一揆側から提案され、不入権の確認と一揆参加者の助命(「前々のごとく」)が条件でした。家康はこれを受け入れ、一揆発生の翌年には両者の間で和議が成立します。
一揆勢の武装解除が行われると、家康は手のひらを返し、寺院存続の条件として改宗を迫りました。これは和議条件に含まれていないものの、詭弁(きべん)を用いた奇策であり、まさに「だまし討ち」です。しかし、既に一揆側には再度戦う戦力は残っておらず、抵抗することができませんでした。家康は、一揆側からの和議条件「前々のごとく」を引き合いに、「前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよ」と言い放ったと伝えられます。
僧侶や一揆側についた家臣の多くは領国外追放となり、寺院建物は取り壊され、本證寺(野寺町)の寺内町を囲んでいた堀も埋められました。家康の命令のとおり、野原となったのです。
本證寺第10代の空誓(くうせい)は、賀茂郡菅田輪(すげたわ)(豊田市)に逃れ、後に大坂本願寺に身を寄せます。そして、この地域では真宗本願寺派の活動が表立ってできなくなりました。
一揆の罪が許されるのは、それから約20年後のことです。
この中心として尽力したのが、第2回に登場した本證寺門徒連判状筆頭の石川忠成(ただなり)(清兼(きよかね))の妻、妙春尼(みょうしゅんに)です。彼女は、家康の伯母で、家康家臣団西三河旗頭(はたがしら)の石川家成(いえなり)の母でもありました。一揆後の苦しい期間中も、信者の代表として人々をまとめてきたのです。
また、この政治的背景としては、織田信長が本能寺の変で亡くなり、家康と羽柴(はしば)(豊臣)秀吉との間での後継争いがあります。本能寺の変の翌年の1583年、本願寺宗主(しゅうしゅ)の顕如(けんにょ)が秀吉と対面、接近すると、家康は一揆関係者の処遇の見直しを迫られることになりました。
まず、1583年に信者が許され、小牧・長久手の戦いの後、西三河地方に秀吉との緊張関係が残るなか、1585年には本證寺をはじめとした有力7寺院が許されます。
この後、本證寺は再興が進められ、空誓も野寺の地へ帰りました。そして江戸時代を通じて寺院建造物が順次整えられ、現在へとつながっていくのです。
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