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かみじま郷土話13

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愛媛県上島町

■弓削島荘の解体と島民の活動
東寺は、海上勢力である小泉氏や、後に村上海賊として著名となる村上氏に、弓削島荘の所務(年貢の徴収など)を請負わせることにより、荘園を維持しようとしました。しかし、岩城島では海賊が公文(年貢の徴収などを行った下級荘官)を打殺し、城郭に立て籠もる事件が発生するなど、周辺は海賊の世界へと変貌し、荘園の維持が難しい状況となりました。康正2年(1456年)には、室町幕府管領細川勝元が村上氏に宛てた書状で、弓削島の状況について「近年有名無実の由その聞え候」と述べています。
そのような状況の中で、東寺は寛正4年(1463年)に、22通の証拠文書を添えて、東寺領因島荘とともに荘園の回復を幕府に訴えました。しかし、その後の記録には弓削島荘の名が現れることがなく、荘園はまもなく解体したものとみられています。
荘園の解体期にある島の人々の生活はどうなってしまったのでしょうか。荘園時代の末期にあたる文安2年(1445年)の兵庫北関(現在の神戸港)に入関した船舶の記録には、弓削島籍の船舶が特産品の塩を積み、岩城島や伯方島に籍を置く船舶と共に活発に入関していたことが記されています。
また、寛正4年には、土生地区の見晴らしのよい高台に、定光寺観音堂が創建されました。「塩の荘園」の役割を終えた弓削島ですが、島民は周囲の環境にも負けず、たくましくその生活を展開していたとみられています。

写真:定光寺観音堂(国指定重要文化財)
解体修理の際に、「寛正四年」と墨書された屋根の野地板が発見されました。荘園時代末期における島民の信仰の拠点だったとみられます。
※詳細は本紙をご覧ください。

担当:教育課 曽根 大地

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