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ふるさとの文化財探訪 第103回

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大分県九重町

『馬貞と遊五』

文化財専門員 竹野 孝一郎

遊五は、元禄元年(一六八八)那珂郡野間村(現福岡市南区)の財部氏の家に生まれ、上座部石成村の庄屋古賀氏の婿養子となり、後庄屋を務めた。古賀九兵衛治久といい、俳号を後藤遊五と号した。遊五は最初杷木の兎城に俳諧を習っていたが、宝永五年(一七〇八)二十一歳で志太野坡の門人となった。馬貞はこの時三八歳で、遊五より十七歳の年長。
馬貞は朝倉石成の遊五亭をしばしば訪ね、草庵の薪水を共にし、ある時は一つの蚊帳に寝たこともあった。遊五は絵を描くことが好きだったようで、馬貞に賛をもとめている。
鶯や清水ながるゝ筆の岡 馬貞
遊五亭の近くに、「清水ヶ岡」といって清水の流れる岡がある。元文五年(一七四〇)に死去した師野坡の霊を慰めるため、遊五はこの岡に鶯塚を建立した。寛保元年(一七四一)には中国地方、翌二年には筑前・筑後地方を行脚して句を集め、『小夜の中山集』が上梓された。
『小夜の中山集』上巻の自序によると、遊五はかつて師野坡の勘気を蒙り、のちに許され、その折の許し文に
鶯や佐夜の中山冬ごもり 野坡
の句が添えられており、塚の呼び名を「鶯塚」とした。
下巻の前半は、鶯を句題とした備後・尾道・備中・厳島・豊前・豊後などの連中による句を載せ、中程に寛保元年に遊五と馬貞が中国路へ旅した句を収めている。旅の途中赤間関で遊五は厳島へ、馬貞はそのまま赤間関へとどまり、遊五を見送った。
遊五への餞別に、
雁といふも櫓声也けり厳しま 馬貞
と、餞吟を贈った。
下巻の跋文を「古稀二翁馬貞」が記している。馬貞七十二歳の時で、その一文に、「五子(遊五)と我(馬貞)水魚の不可思議三十余年」とあり、遊五が野坡門に入って以来の付き合いである。
寛延三年(一七五〇)正月、甲子庵で馬貞八〇歳の祝賀では、
鶯や傾き馴れし耳功者 遊五
の句を贈った。
同年九月、国東の百布老人が身まかったと訃報があり、「追悼の一章をおくらねば」と、九月十七日
何を常月日の耳のきりきりす 馬貞
の句を作り、その二日後の十九日、馬貞は八〇歳で黄泉の人となった。
馬貞四十九日の追善では、
それ是も水の一夜や雁の宿 遊五
の句をおくり、一周忌では、三吟の追善句会を林枝・舎遊と催している。
遊五は、馬貞の死から四年後の宝暦六年(一七五四)、六十八歳で没した。

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