- 発行日 :
- 自治体名 : 福島県白河市
- 広報紙名 : 広報しらかわ 令和7年12月号
■「戦後80年に寄せて〜不決断の責任」
1941年夏。中国戦線は膠着(こうちゃく)状態にあり、対米関係は日々悪化していた。近衛(このえ)内閣は、軍人・官僚・民間の若き精鋭を集め総力戦研究所をつくった。対米開戦となった場合の工業力・海運力・石油資源等の観点から戦局を予測させた。結論は必敗!だが、東條(とうじょう)内閣はこれを黙殺し戦争に突き進む。結果は見立ての通り、310万人の犠牲を払い惨敗した。
南方諸国を破竹の勢いで占領し、真珠湾の奇襲で沸き立つ。だが、翌年のミッドウェーの敗戦を機に形勢は逆転。次々に南洋の島を奪われ、1944年7月にサイパン島が陥落。絶対国防圏が破られ、制空権・制海権を失った。サイパンから発進する爆撃機が各都市を空爆する。
1945年3月10日。東京大空襲で一晩に10万人が亡くなる。4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。日本で唯一行われた地上戦で20万人が亡くなる。もはや戦闘とは言えない。戦争という名の無差別大量殺戮(さつりく)だ。イタリアは、2年前とうに降伏。当初、怒涛(どとう)の進撃をみせたドイツも東西から攻められ5月に降伏。日本も、もはや劣勢を挽回(ばんかい)する力は失われていた。
1945年2月。クリミア半島の保養地ヤルタに、ルーズベルト・チャーチル・スターリンが顔を揃(そろ)えた。3人は黒海を見下ろし〝獅子(しし)の分け前〞を語り合う。ドイツの分割統治。日本は「ドイツ降伏後、3か月以内にソ連が参戦。南樺太(みなみからふと)・千島(ちしま)列島の領有」の密約が交わされた。日ソ中立条約の相手国での重要な会談を日本は知らなかったのか?
そうではない。中立国スウェーデン駐在の軍人は、ソ連の対日参戦を打電。ドイツ大使も情報を送った。だが〝不都合な真実〞は握りつぶされた。ソ連は米英との講和を仲介してもらう〝頼みの綱…〞ある筈(はず)がない。なんとお人好しな!
国際政治は冷酷だ。ヒトラーは一方的に不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻した。スターリンは征服欲と猜疑心(さいぎしん)のかたまり。北海道北部の割譲をも狙っていた。4月初め。ソ連は、来年の中立条約の延長はしないと通告してきた。対日参戦の布石だった。だが、事ここに至っても「ソ連の仲介で…」と夢話をしていた。
牙(きば)を剝(む)く国にすがる。現実を直視せず、希望的観測に終始する指導者たちの姿に、滑稽を通り越して哀れさえ感ずる。戦争の大義を見つけようと、もがきながら死地に赴く特攻隊員。単騎出撃し、米空軍の餌食になった戦艦大和の乗組員。彼らにどう申し開きをするのだろうか。
米国は7月16日原爆実験に成功。17日、再び3首脳はベルリン郊外のポツダムに集まる。26日、日本に無条件降伏を迫る最終宣言を突きつけた。国内では「天皇制維持が不明確」「ソ連の署名がない」と小田原評定(ひょうじょう)が続く。苦慮した鈴木首相は「ポツダム宣言を重要視しない」と発表。米英は「拒否」と受け止めた。
8月6日広島に、9日長崎に原爆を投下。遅れてはならじと、ソ連が満州・樺太に襲いかかる。それでも指導者は「陛下のご聖断」まで決められなかった。東京大空襲からの5か月で80万人もの命が失われた。前年からの死者が、全体の90%にも及んだことに慄然(りつぜん)とする。
歴史に「もしも」はないが、大空襲の時点で停戦に踏み切っていれば沖縄の悲劇はなかった。ポツダム宣言を受諾していれば、広島・長崎の惨劇はなく、北方領土も奪われなかった。無謀な戦争に突入した指導者の責任は重い。一方、圧倒的な軍事力の差を突きつけられても、戦争を止めなかった責任も同様に重い。
今年は戦後80年。世界の秩序は大きく揺れ動いている。日本も貧富の拡大や経済力の低下等で国民の不満はたまっている。歴史上の出来事は全く同じ形では繰り返されないが、似たような状況は再び現れる。政治指導者は確かな歴史観と内外を俯瞰(ふかん)する目を持たなければならない。
