文化 第5回 ごか町の歴史

歴史が語られることもなく静かに眠り続ける五霞の町
新しい時を刻み始めた近代の五霞、関東の歴史の真ん中から去っていく

教科書とはちょっと違う雰囲気 近代の五霞

◆江戸時代中期
≪過疎化にあらがい再生への道歩む≫
(1)幕府の施策「利根川東遷・赤堀川開削」や「日光奥州街道付替え(元栗橋→新栗橋)」で、城下町、宿場町や関所が五霞から消え、古河や新栗橋(現・久喜市栗橋)へ移ります。
(2)武士が居なくなった上、幕府命令で元栗橋の池田鴨之介と並木五郎平が、在地の百姓54家を連れて出て行き、新栗橋宿の開発に携わったので、元栗橋はすっかり寂しくなりました。
(3)その後、新潟・福島や信州などにルーツを持つ人々の先祖が当地にやって来て、現在の元栗橋が形作られていきました。新生・元栗橋村の誕生です。

↑現在の「国勢調査」に当たる「差出帳」255年前の明和7年(1770)に作成され、幕府へ提出された元栗橋村(含:土与部)の「差出帳」です。

▽現在の元栗橋地区と比較すると
・人口は439人増加していますが、1軒当りの家族数は減少しています。
・お寺は11寺あり、山伏8人を含めお寺関係者が30人もいました。
・渡し守や大工・木こりはいましたが、浪人・郷士・医者はいませんでした。

◆江戸時代後期
≪自由で活動的な名主さん達≫
・天保12年(1841)、老中・水野忠邦の「天保の改革」が始まった年、古河や幸手など、近隣の友人に誘われた元栗橋村の勘兵衛さん、『出羽三山詣で』に出かけます。
・勘兵衛さんの日記によれば5月18日、勘兵衛さん達6人は、古河の松五郎宅に集まり出立。仙台や松島の名所・旧跡を訪ね、仙台藩御用達の酒を楽しみ、芭蕉気分で俳句をひねりながら『出羽三山』を参詣した後、越後や上州・草津温泉経由で、7月13日夜、元栗橋村に帰村しています。都合、55日間の旅路でした。(晴37日、曇10日、雨8日)
※関宿藩重役・舟橋隋庵は餞別をくれなかった為、土産不要と記載

◆幕末の五霞
≪利根川図志が描く五霞≫
・安政5年(1858年)に発行された『利根川図志』は、医師・赤松宗旦が著した利根川中・下流域の地誌、いわば当時のガイドブックですが、本編は古河や五霞から始まり、順次、川下の町や村を紹介しています。
・宗旦は松本勘兵衛さん宅に1週間ほど滞在。当地を見聞した上、五霞の紹介記事を書いています。

≪五霞の古文書が語る江戸の事件簿≫
○利根川治水に関する歴史的文書の書き写し
・川妻の藤沼家が作成し奉行所へ提出した「川妻文書」。根岸門蔵が失くすも幸主の小沢家が書写していた。
・幸手の島上和平が老中・松平定信へ提出した建白書・「治河言上之案文」を幸館の中村家が写し、それを元栗橋の松本勘兵衛さんが徹夜で写し、返却した。

○村外で起った有名事件にも興味深々な名主さん
幕府の公式文書も写した名主達。どうやったの?
・古河藩主が関係した「大塩平八郎の乱」…幸主・小沢家
・関宿藩主も現場にいた「坂下門外の変」…同小沢家
・「一橋家vs鍋島家騒動」…元栗橋の松本家

○異国にも興味深々な元栗橋の勘兵衛さん
・海難事故にあった日本の水夫22名を救助して、浦賀湊に入港した米国の捕鯨船マンハッタン号事件…元栗橋・松本勘兵衛さん、書き記す
・ロシア・プチャーチン来航と老中連署の返書[国書]、その「写し」を持っている勘兵衛さん。

どうやって手に入れたのでしょうか?不思議!

お問い合わせ:教育委員会 生涯学習係/五霞町の文化財を守る会
【電話】84-1460(直通)