- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県上三川町
- 広報紙名 : 広報かみのかわ 2025年12月号
東蓼沼のとあるお堂には、平将門(たいらのまさかど)の乱にまつわる伝承が残されています。
平安時代中期になると、地方各地の豪族や名主層は、互いの領地争いや自衛のために同族の家の子(郎党)や支配下の農民たちを武装させた武士団を組織するようになりました。その武士団の中で早くから力をつけたのが平氏と源氏でした。
平氏は、桓武天皇の曽孫である高望(たかもち)王が臣籍(しんせき)降下して「平」姓を名乗るようになりました。上総介(かずさのすけ)に任官されて上総(かずさ)(現千葉県)、下総(しもうさ)(現千葉県・茨城県・東京都・埼玉県)、常陸(ひたち)(現茨城県)を所有しました。高望王の孫である将門が都での任務から帰還すると、将門の叔父(おじ)にあたる国香(くにか)などに所領の多くを奪われていました。このことが契機となり、一族内で小競り合いが発生し、そのうち、将門は常陸の国司に反抗する豪族の藤原玄明(はるあき)と手を結んで東国の各国府を襲い、新皇(しんこう)を名乗って新政権を樹(た)てるまでになりました。この事態に中央政府が介入したことで一族内の私闘が深刻化し、平将門の乱となりました。
結果、乱は平定され将門の一族は敗走します。将門四天王と呼ばれた4名の武将と女子供は、唐金(からかね)(青銅)の舟に乗り鬼怒川を遡(さかのぼ)って落ち延びました。そして、蓼沼の地まで来たときに舟が沈んでしまったため上陸し、そこにお堂を建てたといわれています。そのお堂が「上総堂(かずさどう)」と呼ばれ、舟が沈んだところが「銅沼」であったそうです。
一族はその後、将門を刺した刀を納めたといわれている成田山新勝寺には、決して参拝することはなかったといわれています。
問い合わせ先:生涯学習課 文化係
【電話】0285-56-3510
