文化 郷土を知り、郷土を愛する「志木市 歴史さんぽ」-執筆・協力 志木のまち案内人の会-

■第63回 新河岸川改修碑
武蔵野台地に沿って西から流れて来る柳瀬川を新河岸川が志木市役所の所で受けて下流に向かい、その流れが志木のまちを南西部の台地と東北部の低地に分け、東北部の低地宗岡地区は東を荒川の流れで囲まれています。この宗岡地区は古来、水害を頻繁に受けてきました。江戸時代以降の特に大きい水害だけでも、天明6年(1786)、弘化3年(1846)、安政6年(1859)などがあり、小規模のものまで含めれば毎年のことだったのではないでしょうか。このような度重なる水害は、荒川・新河岸川・柳瀬川の沿岸の町村に共通する災害でした。
荒川の沿岸である飯田新田村(現さいたま市)に生まれ、水害によって住民が苦しむ様子を見てきた斎藤祐美(さいとうゆうび)は、沿岸住民の苦難である大洪水の災害をなんとかして取り除こうと、治水を終生の仕事にすることを決心しました。
斎藤祐美は、明治30年から昭和11年までの約40年間、県議会議員として7期在任し、議長も3期務め、在任中は水害問題の解決に奔走しました。明治時代になり、度重なる水害の度に関係町村長が政府に河川改修を陳情してもなかなか聞き入れてもらえませんでした。明治43年の大水害を機に、荒川・利根川・渡良瀬川の治水事業の促進のために埼玉治水会が結成されると、斎藤祐美は幹事として大活躍し、問題解決に大きな役割を果たしました。
荒川の改修工事は明治44年からはじまり、新河岸川の改修もやっと大正10年から9年継続事業として開始されました。その改修工事は、(1)川の屈曲部分の直線化、(2)荒川との合流地点を朝霞市・和光市の境界付近(川の口)から岩淵水門までに延長、(3)いろは橋付近に洗い堰(ぜき)と宗岡閘門(こうもん)を設置、(4)左岸のみにあった堤防を両岸に築造するなどがあり、改修工事後は、沿岸各地の水害は格段に減少しました。
荒川と新河岸川の改修が、斎藤祐美の献身的な努力により成し遂げられたことは、多くの人が認めるところであり「治水翁(おう)」の名でその偉業は称えられました。荒川に架かる治水橋は治水翁に由来します。いろは橋の宗岡側橋畔のポケットパークに建つ「新河岸川改修碑」は上記のような「治水翁」の功績を称えています。