- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県吉富町
- 広報紙名 : 広報よしとみ 令和7年11月号
父、立澤秀吉(たつざわひできち)の戦死の公報が届いたのは、昭和19年の4月頃でした。亡き母から何度も聞かされた話では、親戚・関係者が集まっての報告会があり、当日は大変寒い日で「冬物のコート類は仕舞ってあったのを、又引っ張り出して着て来ました。」と言う位寒い春だったようです。
その戦死の公報には「立澤秀吉は北緯5度、東経135度の洋上にて戦死」とあったようです。つまり輸送船が戦地に赴く途中、機雷に触れて沈没戦死となったのです。その輸送船に同乗していて助かった同僚の兵隊さんから母が聞いた話では、全員甲板から海に飛び込んで行ったのに、立澤は「船室に鉄砲を取りに行く」といった言葉が最期の言葉となったようです。
真面目で間抜けな父は船室で鉄砲を抱いたまま海の藻屑となってしまい32歳の短い生涯を閉じました。※当時、鉄砲をなくすと上官から厳しい制裁があったそうです。
ここで母の話を少しさせてください。
母は父が戦死した当時、私たち幼い姉弟を養うために、毎日和裁で朝から晩までミシンを踏んでいました。私はミシンの音で目覚め、ミシンの音が子守唄で寝ていました。
この頃(昭和19年)サトウ・ハチロー氏作詞の「お山の杉の子」を私の頭を撫ぜながら毎日唄っていました。それから失業対策の道路工事、土木現場の飯場の飯炊き等、働き通しでした。その所為から50代後半頃からリウマチに罹り、別府の「矢野病院」を始め「亀の井診療所」、城野の「北九州総合病院」等に入院し、また、島根県大田市の石見銀山の近くの病院にも、早朝深夜の車の運転で行きましたが何れも効果がなく、自宅での車椅子、ベッドで寝たきりの生活になりました。この頃の母の楽しみは、毎日来てくれる姉とのコーヒータイムでのおしゃべり、妻の仕事終わりの入浴時の楽しい笑い声の会話、そして、中津のデパートでの車椅子ショッピング、これが唯一の楽しみだったようです。そして、戦争犠牲者の母は苦労の末に73歳で永眠しました。
そして、戦争で亡くなった戦没者を追悼する会が吉富町遺族会です。近隣の豊前市や上毛町では有力な政治家の協力で、市・町の運営で戦没者追悼式が実施されてきました。我が吉富町は遺族会が単独で細々と幸子の西光寺、小犬丸の宝福寺と交互に隔年で仏教の追悼式を実施してまいりましたが、宗教上の問題もあり、仏教形式では「否」という会員もいる中、前遺族会会長の太田博文さんや現会長の喜田さんや遺族会のメンバーの運動や努力により、昨年より町主催の追悼式が実施されるようになりました。
やっと国のために亡くなった英霊達も一安心です。又、天仲寺山の観音像も同様に遺族会メンバーが管理掃除をしていましたが、メンバー全員が80〜90歳の高齢となり、町に掃除をしていただけるようになりました。
追悼式や観音像の件は、花畑明町長や執行部の皆様のご理解、ご尽力、ご協力のお陰で、町主催で実施されることとなり大変感謝いたしております。ありがとうございます。
病気をきっかけに、大好きだったゴルフもできなくなり、自宅で静養中、お嬢様が「絵手紙を描いてみては」と、絵筆と絵の具を届けてくれたことが転機となり、独学で制作を始められたそうです。爾来(じらい)30年以上にわたり、思い溢れる作品を描き続けています。
