- 発行日 :
- 自治体名 : 大分県竹田市
- 広報紙名 : 広報たけた 2025年5月 NO.242
■鷺瀬(さぎせ)の蛍
鷺瀬は、七里田川と芹川の合流地点のあたりをいう。河童の名所でもあり、それゆえだろうか、「先手」とか「手無ヶ(てなさか)淵」とも言われているという。そういえば、河童は退治されるときによく手を切り落とされる。
直入町長野地区にある「秘湯ながの湯」の坂道を下っていくと鷺瀬はある。ここには、岡藩主の御茶屋(休憩所兼宿泊所)があったという。
鷺瀬を訪れた最初の岡藩主は、3代中川久清(隠居後に「入山(にゅうざん)」)である。寛文10(1670)年6月、この地の大庄屋(おおじょうや)大塚氏の屋敷の裏(うしろ)山に御茶屋を、翌年には湯治場所として桑畑(くわばた)の葛(くず)淵に御湯屋を、さらに寛文12(1672)年に昔から蛍の名所と言われていた鷺瀬に、御茶屋を造営した。入山は、大船登山の休憩所として七里田に続き、これらの施設を整備した。
「中川氏御年譜」には、「長野組鷺瀬ニ掛造(かけづくり)御茶屋建ツ」との記載があり、川の上に突き出した夏向きの茶屋だったと思われる。
入山は蛍の舞う頃、度々この地にやってきたという。寛文12年から330年後の平成14(2002)年6月、長野裏田井路組合が建てた看板にその詳細が記されている。また、入山の孫久通(ひさみち)は、公式記録としては6度も長野の湯治に訪れている。
かつては、新田(にいだ)地区へと渡る橋があったが、現在は流失しその一部が残る。実のところ、2つの御茶屋も葛淵の御湯屋も久通の治世だった元禄15(1702)年8月29日の大風雨で破損、流失している。
流れる瀬音だけは、幾星霜(いくせいそう)を経ても変わらない。