- 発行日 :
- 自治体名 : 大分県竹田市
- 広報紙名 : 広報たけた 2025年10月 NO.247
■衛藤大粛(たいしゅく)と荻岳山頂の知事様塔(ちじさまとう)
肥後藩知事細川護久(ほそかわもりひさ)の減税布告文を刻んだ「知事様塔」が、荻岳山頂にある。裏面に明治6(1873)年11月、中江、滝水村の人々が護久の恩徳を追慕し、碑を建てたのは「千秋の亀鑑(永遠の模範)」である。桑木村(荻町)士族衛藤大粛と銘文にある。
大粛は、父大椿(たいちん)の長男として、文政10(1827)年に生まれ、医業を継ぎ儒学を角田九華(つのだきゅうか)に学んでいる。安政2(1855)年に父も務めた岡藩医学校博済館の会頭となり、明治維新後は私塾を開き、農村の子弟教育を行っている。
護久の布告文は、本年貢は無理であるが、上げ米(100石につき1石)、口米(付加税)会所並びに村出米銭(一歩半米)など雑税8万9千836石を免除する。明治3(1870)年とある。これは、前年6月14~16日と豪雨による被害への救済策である。これ以外の諸政策として、専売仕法、諸種の制限を廃止し経済の流通を促している。また、知事の家禄(給料)を政府の規定より半減し、その残り1万6千484石を農民救済に充て、3万石以上の士族は1千117俵、最低の二人扶持(10俵半)以下は25俵に損上益下と、独自の改革を行っている。
大粛は、「藩民を喜ばせ励まし勇気づけたことは、藩知事の恩徳だと感じ、それが中国の周の民が召伯を追慕するのと同じである」と記している。周は、紀元前12世紀から同3世紀までの国で、故事は召伯が民とともに洛陽の都を築き、成王を迎え訓戒をする。「王は徳を敬い徳ばかり務められ、天命の長久を祈られよ」と、王は教えに従い恩徳の政治に努めている。この教えが儒教の基となり、孔子が完成させている。
知事様塔の最後の和歌には、「新しき御代の光のもりしかな、久しき影を残す白川」と護久の業績がたたえられ、白川は明治6年当時の県名である。
知事様塔は、久住町に3基あり、恩恵を受けている。
(広田 敦)
参考:まちづくり文化財課資料
