■市内の斎王(さいおう)伝承地
・阿保頓宮(とんぐう)跡(阿保城跡) 阿保
・頓宮跡 中柘植
・堺屋(さかいや)跡(堺目砦(さかいめとりで)跡) 伊勢路
斎王とは古代から中世の半ばまでおかれた、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕した未婚の女性のことです。斎王とその一行が都と伊勢国とを往来した経路は時代によって変化しますが、両所の間に位置する伊賀国は長らくその通り道となっていました。そのため、市内には斎王関連の伝承地がいくつか存在します。
都が大和国にあった奈良時代までは、阿保を経由する経路がとられており、ここには阿保頓宮がおかれました。頓宮とは、斎王(または天皇)の一行が道中に休息をとるための仮の宮のことです。阿保頓宮の場所には諸説ありますが、その候補のひとつが初瀬(はせ)街道を北に見下ろす丘陵の上にあります。現在は土塁(どるい)が巡る城跡(阿保城(あおじょう)跡)としての痕跡が残ります。
平安京に都が移ると、延暦16(797)年から伊賀国を通らない経路がとられるようになる仁和2(886)年までの約90年の間、斎王一行は近江国から柘植を経由して伊勢国に入っていました。中柘植の一角、「斎宮芝(さいかしば)」と地名の残る地には、この時代に頓宮が営まれたと伝わります。この付近を流れる柘植川・倉部(くらぶ)川で身を清めた一行は頓宮で休息をとり、また次の頓宮をめざしたと想像されます。
また、都が山城国に移ってからも、斎王らの帰京の際には依然として阿保を経由する経路がとられることがありました。その際一行は、伊賀国との国境にある「堺屋」で喪服を谷に投げ捨てるなどの儀式を行ってから阿保頓宮に泊まりました。この堺屋の跡と伝えられる地が伊勢路の東端、現在の津市との市境にあたる標高約600メートルの山稜上にありますが、こちらも現在は城跡(堺目砦跡)としての土塁などが残ります。
いずれの地も今のところ頓宮や堺屋であったことを示すものは確認されていませんが、先人たちにより長きにわたってきらびやかな行列の姿がそこに思い描かれてきた、かけがえのない地です。
問合せ:文化財課
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