■伊賀における盤上の物語〜将棋・囲碁の普及〜
ここ数年は藤井聡太八冠の活躍もあって、将棋ブームが到来しています。このような将棋・囲碁などの盤上遊戯が大衆の娯楽として普及したのは、江戸中期以降のことです。
伊賀付の藤堂藩士であった関家には、人々が盤上遊戯を楽しむ様子を描いた一枚の絵が残されています(写真(1))。着物に記された名前から、関家当主と「福井」という人物の対局のようです。そして、背後から盤上をのぞき込む人物には「米中(べいちゅう)」とあります。この米中が、関家に作品を残す松阪出身の画家、堀西米中だとすると、対局は米中が伊賀で活動した明治18(1885)年頃のことなのかもしれません。
対局が囲碁なのか将棋なのか、勝者がどちらだったのか知る由もありませんが、盤の奥に座る女性の表情は実に楽しげです。
一方で勝負の行方がはっきりと分かる資料もあります。上野相生町の武家屋敷「入交家住宅」には、将棋の星取表が襖(ふすま)の下張りとして残されていました(写真(2))。
この文書を見ると、入交のほかに深井・安波といった藤堂藩士と思われる人物らが対局を重ねており、時には棋力に応じたハンデキャップも用いて遊んだようです。
それでは、江戸時代の伊賀で優れた棋士は誰だったのでしょう。享保2(1717)年刊行の『将棊図彙考鑑(しょうぎずいこうかん)』には、初段から七段まで全国各地の有段者の名簿が掲載されています。そのなかに伊賀上野の商人である菅谷(屋)八郎兵衛・平野谷(屋)喜八郎(いずれも初段)の名前が確認できます。全体として武士の有段者が多いなかで、伊賀では町人層に将棋の達人がいたのかもしれません。
※写真は、本紙またはPDF版28ページを参照してください。
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