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伊賀の歴史余話35

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三重県伊賀市

■「養蚕(ようさん)王国」伊賀〜養蚕業の盛衰〜

毎年6月頃になると、皇后陛下による紅葉山(もみじやま)御養蚕所での養蚕がニュースになります。この皇室による養蚕は、明治4(1871)年に昭憲皇太后によって再興されたものです。幕末の開国で生糸(きいと)が最大の輸出品目となった日本では、明治政府が積極的に養蚕業を奨励します。宮中における養蚕の再興は、その象徴とされたのです。
政府の奨励を受け、伊賀でも明治中頃から大正期に養蚕戸数や繭(まゆ)の生産が大幅に増加し、養蚕が地域と農家の経済を支えるまでになります。これに合わせて蚕(かいこ)の餌料となる桑畑の面積も劇的に増え、当時の長田村では畑の8割が桑園となるなど、農村の風景も様変わりしました。
昭和4(1929)年には、伊賀乾繭(かんけん)販売組合が設立され、翌年には県下初の繭専門の乾繭倉庫が設置されます。その生産体制や設備の充実ぶりは新聞紙上で「産繭(さんけん)王国伊賀」と称されるほどでした。
しかし、ほぼ同時期に発生した世界恐慌によって繭の価格は下落し、副業を養蚕に頼っていた農家は大打撃を受けます。この教訓から、農家では養蚕に頼らない農業経営の多角化が打ち出され、伊賀地域でも畜産業を営むものが増え、桑園だった畑にはキャベツ・トマトなど蔬菜(そさい)の作付けが目立つようになります。
さらに化学繊維の発達や、中国などからの安価な生糸の進出もあって、太平洋戦争後の養蚕業は衰退の一途をたどることになります。

◇養蚕戸数・繭生産量・桑園面積の推移

問合せ:文化財課歴史資料係
【電話・FAX】41・2271

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