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歩いて発見。津の魅力 歴史散歩~津城かわら版〔218〕

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三重県津市

■津城かわら版(9) 廃城後の津城[1] 明治時代の変遷
時代が明治へと移り、明治2(1869)年の版籍奉還で、それまで藩主であった藤堂高猷(とうどうたかゆき)は藩知事となりました。その後、家督相続して藩知事となった藤堂高潔(たかきよ)は、明治4(1871)年7月の廃藩置県の後に罷免となり、旧藩主家は東京へ移住することとなります。
同年8月には、津城は兵部省(ひょうぶしょう)の所管となり、11月、城内にあった県庁舎(当時は津県)は城外に移され、それまでこの地域の政治の中心施設であった津城はその役目を終えました。
明治5(1872)年には、兵部省が陸軍省と海軍省に分離し、同年6月に太政官(だじょうかん)から陸軍省に対して「府県城塁取毀ノ儀ハ自今伺ヲ経、可致処置事(城の建物等の取り壊しは今後手続きを経た上で処置すること)」の通達を出しています。
その後、明治12(1879)年3月に外堀に沿う平櫓(ひらやぐら)12棟などの入札・売却が行われ、津城外郭の景観が大きく変化したといわれます。続いて、明治18(1885)年には「櫓門等の公入札を達せられ、竟(つい)に愛知県名古屋の者金千有余円とかにて落札して払下ニ成る、因之(これにより)同年八月中旬より櫓多門(たもん)の取毀(とりこわ)ちに掛る…」(勢州津城櫓多門寸間(すんけん)記・津市史第三巻所収)とあり、本丸櫓や多門等が入札にかけられ、名古屋の商人が千円余りで落札して払い下げを受け、その後取り壊されました。
明治22(1889)年には、陸軍省から城や堀の敷地の一切が旧藩主家に1万円で払い下げられ、再び藤堂家の所有となります。同じ時期に小田原城(神奈川)や高田城(新潟)、岡山城(岡山)なども旧藩主家に払い下げられています。これは、ゆかりのある旧城主家に城地を払い下げることで城の旧形を保存し後世に伝えることができ、歴史上の沿革を示すことにもなり好都合であるとの陸軍省の考えが反映されています。こうした流れを受け、明治25(1892)年には旧津藩士や子孫が連名で「津城跡保存請願草案」を藤堂家を通じて津市長に請願しています。その内容は、津城の城門や墻垣(しょうえん)(垣根や石垣)の崩壊毀(き)却の中止を要請するものでした。
こうした請願の一方で、この頃から津城は外堀から埋め立てが始まり、外堀と内堀の間にも町家が建つようになって、明治26(1893)年には裁判所が岩田町から内堀北側(丸之内・現在の津地方裁判所の位置)に移転しています。また、明治34(1901)年には東外堀、明治41(1908)年には南北外堀の大部分が埋め立てられ市街地化が進みました。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

次回の「津城かわら版(広報津12月16日号)」
廃城後の津城[2] 大正時代から戦前まで

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