■奥山大権現(だいごんげん)の碑
初瀬(はせ)街道の宿場として知られる白山町垣内(かいと)地区。国道165号から垣内の集落に入ると、垣内公民館を過ぎたところにある大きな木の下に、山の神などの石造物が集められています。
この石造物の中に「奥山大権現」と大きく書かれた石碑があります。裏面には「明治廿八年八月」と書かれており、明治28(1895)年に建てられたことが分かります。
この「奥山大権現」の石碑とは別に垣内地区にはもう一つ「奥山大権現」の文字が刻まれた道標の石碑があります。垣内公民館から北に1.5km進むと、布引の滝との分岐の案内板があります。そこから西に350mほど歩くと、道の右側に石碑が現れます。この石碑には「右 奥山大権現」と書かれ、その横には小さく「是ヨリ五十二丁」とあります。右側面には「明治十四年辛巳三月吉祥日建之」、左側面には「伊勢国津伊予町 綿久」とあります。
「丁」は日本の伝統的な距離の単位で、1丁は現在の約109mに相当します。52丁は、現在の5km以上の距離となり、この石碑の文字は、「ここから右に進んだところに奥山大権現がある」ということを示しています。
現在は道の痕跡はありませんが、この石碑から右に進んだルートを地図でたどると、青山高原の三角点に至り、さらに伊賀市側に山を下ると、奥山愛宕(あたご)神社があります。この神社は、標高640mの高所にあり、古くから奧山権現として信仰されてきました。慶長13(1608)年、藤堂高虎が伊勢・伊賀に入府した際、家臣の山内氏が信仰していた愛宕神を現在の場所に祭ったのが始まりとされています。明治時代になると、戦地に赴く際の戦勝祈願に多くの人々が訪れるようになり、今もなお「無事帰る」の願いを込めたカエルの置物が拝殿にたくさん置かれています。
現在は伊賀市側から自動車で神社へ訪れることができますが、明治時代には多くの人々が垣内から歩いて山を越え、神社に参詣していたようです。垣内地区の石碑は、このような信仰を背景に作られたものと考えられます。
奥山大権現の碑は、使われなくなった参詣道の存在や、富国強兵を目指した明治時代の面影を今に伝えています。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>