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歩いて発見。津の魅力 歴史散歩~津城かわら版〔214〕

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三重県津市

■津城かわら版(7) 江戸時代中期の津城下を見る
今回は、江戸時代中期(享保期)の津城下絵図を詳しく見ていきましょう。
享保期(1716~1736年)に描かれたこの絵図の特徴は、距離や方位がほぼ正確に描かれており、現代の地図に近い描写となっていることです。描かれている範囲は、北は安濃川、南は岩田川によって区画される城下と阿漕町までの伊勢街道沿いの町並みです。また、東は海岸近くの「川口船入」と「塩浜」までを、西は伊賀街道沿いの「八丁二丁目」までが描かれています。武家屋敷と町家は色分けなく黄土色、寺社は深緑色、藩の公共施設は白色で表現されています。海や川の描写に誇張や省略が見られるものの、城や城下町は詳しく描かれ、津城の特色として挙げられる内堀の広さがはっきりと認識できます。また、武家屋敷地は藩士の名前が個々に記されており、現代の住宅地図のようになっています。
広報津4月16日号で紹介した江戸時代前期(寛永期)の津城下絵図と比較すると、最も大きな変化が見られるのが、城の中心となる本丸の南西部に、大天守と小天守の建物(櫓(やぐら))が描かれていないことです。これは寛文2(1662)年の大火の際に、城下からの飛び火で城内の建物が焼失したという記録があり、その後は大天守と小天守は再建されなかったことを物語っています。
さらに小天守東側の本丸南側石垣には一部が途切れた描写が見られます。ここは埋門(うずみもん)と呼ばれる場所で、江戸時代前期の絵図にはなかった新たな門がこの頃までに設けられたことが分かります。また、城下町範囲では「西シン丁」と記される通りが新たにできて、武家屋敷地が西側に拡大したことが分かります。
江戸時代中期を迎え、津の町は津藩の城下町として発展するとともに、人々の往来に対応するように、これまではなかった安濃川への架橋が見られるなど、参宮街道の宿場町として基盤整備が進んだ様子がうかがえます。城下町と宿場町の二つの側面を持つ津城下は、伊勢国の中心地としてその後も発展を遂げていきます。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

次回の「津城かわら版(広報津8月16日号)」
江戸時代後期の津城下を見る

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