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歩いて発見。津の魅力 歴史散歩~津城かわら版〔216〕

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三重県津市

■津城かわら版(8) 江戸時代後期の津城下を見る
広報津4月16日号と6月16日号では、江戸時代前期(寛永期)と中期(享保期)の城下の変遷をたどりました。今回は幕末に近い後期(嘉永期)の城下絵図を見ていきましょう。
嘉永期(1848~1855年)に描かれたこの絵図の特徴は、城下の様子が紙面全体に模式的に描かれていることや、周囲の余白に津の町の歴史の概略をはじめ寺社や名所に関わる内容などが詳しく書かれていることです。
前期・中期の絵図同様に色分けされ、武家屋敷が灰色、藩の施設が薄紫色、町屋部分が朱色、道路部分が黄土色、そして海や川が青色に着色されています。また、描かれる範囲も拡大し、北は塔世橋を越えて四天王寺まで、西は八町通りと安濃川対岸の納所村までを描いています。
この絵図で最も特徴的なのが、文政3(1820)年に創立された藩校有造館が「御学校」として描かれ、東之丸と橋で繋がる場所にあることです。
藩校は、津藩9代藩主藤堂高嶷(たかさと)の治世に設立の志望があったものの、藩の財政難によって先送りされ、10代藩主藤堂高兌(たかさわ)の治世になって実現しました。藩主自ら節約して貯めた資金を基に建設経費を捻出し、校舎は起工からわずか1年で建設され開校に至りました。藩校設置には、困窮する藩の状況を回復させるためには何をおいても藩士の教育が第一と考えた高兌の意志があり、本丸至近の場所での藩校建設は、初代督学(学事を監督する人)となる漢学者・津阪東陽(つさかとうよう)の強い進言があったといわれます。
嘉永元(1848)年には、現在の西橋内中学校の場所に「演武荘」が設けられます。これは、全国各地への外国船来航などの影響で武備充実の向上が意識され、武術鍛錬に注力されるようになった時期にあたります。演武荘では武術の修練や操銃の訓練が行われ、藩校有造館とともに、藩士の文武両面の向上に貢献しました。
津城下はその後、時代転換の中で幕末を迎え、明治以降の県都へ転換する時代に向かいます。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

次回の「津城かわら版(広報津10月16日号)」
廃城後の津城跡の変遷

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