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あなたはどれだけ知ってる?藤堂高虎(とうどうたかとら) vol.8

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三重県熊野市

■いよいよ今回からは、赤木城跡について紹介します。
これまでは、藤堂高虎の人物像と彼が携わってきた数々の城について取り上げてきました。みなさんは、高虎についてどのような感想を持たれたでしょうか。城づくりでの偉業にあらためて感心された方、その人物像に触れ、高虎を身近に感じられた方、あるいは、大柄な体格が意外だったなど、様々な感想を持たれたことと思います。
そんな藤堂高虎が築城したといわれている「赤木城」について、発掘調査で分かったことや整備事業での成果を詳しく掘り下げることにします。
歴史的背景をみると、赤木地域は、天正13(1585)年、豊臣秀吉の紀州征伐により、豊臣秀長の支配地となりました。天正15(1587)年、豊臣氏の検地に対して地元住民が激しく抵抗を示したため、秀長の重臣藤堂高虎は、奥熊野鎮圧の拠点として赤木に城を築きます。これが赤木城の始まりだといわれています。
平成元(1989)年、「田平子峠刑場跡」と併せて国史跡に指定され、平成5(1993)年には、当時の紀和町教育委員会が保存管理計画を策定しました。それに基づいて、これまで整備や維持管理が進められてきました。
250m程の丘陵地に築かれた赤木城は、中世の山城から近世の平城への過渡期に見られるもので「平山城」といわれています。発掘調査が行われるまでは、うっそうと茂る杉林の中にひっそりとたたずむ城跡で、木々の間に石垣が見え隠れする程度でした。廃城の際に大きく崩されたのであろう主郭入り口部分は、数百年間にわたって腐葉土が積もり、崩れ落ちた石垣に覆いかぶさっていました。地元の人たちは「赤木城を守る会」を立ち上げ、桜の木を植えるなどしながら環境整備に取り組み、時おり訪れる人たちを迎えていました。
そして平成7(1995)年には、『赤木城跡保存整備事業』として、崩落した石垣の復元を図るため発掘調査を実施するに至りました。

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