高虎の城づくりや時代を読む才能の源泉はどこにあったのでしょう。今回は、時代背景とともに高虎の生い立ちをご紹介します。
高虎の父親は「虎高」といい、母親は神官の娘で「とら」という名でした。父虎高は武田信玄の父信虎にも仕え、そこで「虎」の字をもらい受けるほどに才を認められました。しかし、その後諸国を渡り歩き、近江国(おうみのくに)に戻り犬上郡数ケ村を支配していたそうです。
当時、近江国では北部を浅井氏が支配し、それ以外の地域では様々な勢力が乱立していました。
そうした中で、高虎は、弘治2年(1556)に近江の犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)で生まれました。高虎が生まれた時代は、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代真っ只中といっていい時期でした。
例えば、武田信玄と上杉謙信は、10年以上に及ぶ川中島の戦いを繰り広げている頃でした。
また、近江国は、京の都の玄関口という地理的背景もあり、古来より歴史に名を残した人物を数多く輩出してきました。特に、戦国時代は顕著で、高虎や浅井氏(長政)以外にも石田三成や大谷吉継など名高い武将も近江国の出身です。
実は、東紀州地域も無関係とはいえず、戦国時代に近江国の名門六角氏の一族が尾鷲市から熊野市にかけての海岸部八ケ村を治めて、曽根氏を名乗ったという史実が残されています。
高虎は、父虎高の背中を見て育ち、時代の中枢であった近江国で自らの才覚を伸ばし、飛躍の機会を探っていました。赤木城の築城が1589年頃といわれています。城づくりの名手といわれた高虎の修練の時期といえるのではないのでしょうか。
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