■ものづくりのまち始まりは「飛行場」
▽1600もの事業所が立ち並ぶ一大工業地帯
久御山町には鉄道が通っていないものの、国道1号がまちの中央部を南北に縦断し、第二京阪道路、京滋バイパスなどの広域幹線道路網が発達しています。道路交通の要衝となっており、工業地帯が形成され、工場や商店など約1600の事業所が存在し、町の中央部には大型商業施設が立地しています。
「ものづくりのまち」と言われる久御山町ですが、現在の工場が立ち並ぶ地域には、かつて航空機乗員の養成を目的とした「京都飛行場」が存在しました。その跡地は、一時農地として開墾されたものの、昭和41年の国道1号の開通を契機に工業用地として転用され、久御山町の産業は発展してきました。
▽久御山町に飛行場
昭和初期、長期化する日中戦争と緊迫するアジア情勢の中で、空軍力の増強は緊急不可欠の課題となっていました。これらを背景に、昭和14年逓信(ていしん)省は全国5か所で国営航空乗員養成所と、付属飛行場の建設を計画しました。
当初、巨椋池干拓地が候補地となっていましたが、地元住民や京都府などの反対があり、飛行場用地は、干拓地に隣接する佐山村と御牧村の一部に決定されました。
飛行場の建設計画を知った佐山村は大きく動揺し、反対運動も起こりましたが、土地の買収が進み、昭和15年に工事が着工され、建築工事がほぼ完成した昭和17年4月に乗員養成所が開所しました。開所時には138人が入所し、養成所が廃止になるまで、京都では400人以上がここで教育を受けることとなりました。
◇戦争の記憶 今も石碑に
▽赤トンボによる飛行訓練
京都飛行場で操縦教育が開始されると、赤トンボによる飛行訓練が行われました。訓練は、田井集落の東南地区から離陸し、向島・淀を経て八幡に向かい、上津屋の上空で着陸態勢に入るというものでした。
京都飛行場で響きわたる爆音は、国民学校で窓を開けていると先生の声は全く聞こえないほどでしたが、窓外の赤トンボの勇姿を見るのが楽しかったという生徒もいたようです。
▽刻まれる228人の名前
久御山でも昭和12年8月ごろから高年齢層にも赤紙の召集令状が届くようになりました。東一口に住む当時36歳の男性にも赤紙が届き、妻子を残しての入隊でしたが、昭和13年5月7日、戦死を遂げられました。御牧村での戦死者は日中戦争勃発後、すでに3人を数えていましたが、妻子を残しての戦死者は初めてでした。
久御山の戦死者は昭和19年が87人、昭和20年が61人でこの2年間だけで148人もの戦死者を数えました。久御山中央公園の記念碑には、日清日露戦争から太平洋戦争までの間に亡くなられた人たち228人の名前が今も刻まれています。
※内容は久御山町史、令和5年戦没者追悼式朗読から引用
〇飛行場跡を取り囲む用水路
久御山町には写真のような用水路がいたるところで見られます。これは、当時の飛行場の内水を排除する排水路として飛行場の周囲に造られたものです。飛行場の跡形はなくなりましたが、その面影が実は残っています。
〇新たなまちづくり新市街地(みなくるタウン)
久御山高校北側の市田・佐古・林地区に位置する約41ヘクタールを新市街地(みなくるタウン)と名付け、整備を進めています。道路交通環境を生かした企業誘致と、新たな時代のモデルとなる住宅市街地の形成により、職住近接のまちづくりをめざします。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>