■北條氏勝と亀山城惣構の成立
慶長六年(一六〇一)、徳川家康家臣の北条氏勝が亀山城主として入城します。以後、形原松平氏が城主の時代に廃城されるまで、徳川政権の大名が亀山城主として任じられることとなります。
鍬山神社の所蔵する『城主記』は、歴代の亀山城主について記した記録史料ですが、北条氏勝が慶長六年から同十一年までの五年間在城したと記されています。注目されるのは、同じ史料に、亀山城下の「惣堀」(惣構)が氏勝の時代に築造されたとされていることです。
亀山城惣構は、亀山城下を囲繞する土塁と堀から構成されていました。十七世紀前半に作成された『正保城絵図』の「丹波国亀山城絵図」には、土塁・堀とも幅が五間(約9メートル)、土塁の高さは二間(約3.6メートル)あったと記されています。
惣構の成立時期をめぐっては、「惣堀普請」を命じた明智光秀とする説もあります。ただ、惣構とは、町人や職人らの住む町を囲繞するものである点を考えると、まだ城下町ができていない光秀期に築造されたとは考えにくいようにも思います。
この点、豊臣政権期に城下町が発達した後の、氏勝の時代に惣構が築かれたとする『城主記』の記述は、信憑性の高いように考えられるのです。
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