■〝悪さ加減〞再考
日本を代表する2つの政党の新しいリーダーが決まった。特に自由民主党の総裁は総理大臣として我が国のトップになるわけで、その職責は重い。来月には米国の新大統領も決まる予定で、国際的にも新たなリーダーが牽(けん)引する政治体制がスタートする。一般的に国民は、時の政府に平和な生活や充実した福祉、そして持続的な経済成長などを求めるが、世の中の停滞や閉塞(そく)感が強いほど、その解決を強烈なリーダーシップによる政治力に期待する傾向がある。その結果、リーダーが故意か錯誤か己の力を過信し、独裁と化し、国民に大きな悲劇と犠牲を強いてきたことは歴史の証左に明らかだ。そして一度失った信用を取り戻すには膨大な時間とコストを要することもまたしかりである。
以前に本稿(善聞語録69)でも取り上げたが、改めて政治学者丸山眞男が戦後まもなく発した言葉が心に沁(し)みる。福沢諭吉の論説を引いた〝悪さ加減の選択〞で、曰く「政治にベストを期待すると幻滅あるいは失望に転化する。よって悪さの程度が少しでも小さなものを選択するのである」と。冷めた見方との批判もあったというが、政治家の端くれとして私も共感することが多い。住民と同じ目線と価値観でもって泣いて、笑って、怒ることは可能なはずだ。普段の生活の中で「変」と思うことは「変」と唱え、改める行動を起こすことに政治の原点を求めたい。近時、隣県を含め全国的に後を絶たない首長のハラスメント問題も、〝悪さ加減〞をトップ選択の基準にしていれば起こらなかったかもしれない。一連の騒動の間に、政治の停滞や混乱で失ったものは極めて大きい。
また人は変節するものだ。元々はモンスターでなくても、環境の変化や時間の経過とともに徐々に「裸の王様」に、そして怪物に近づいていく。元より人間は善と悪の両面を併せ持つ。悪への変節に自ら気付くか、そして気付いた時に自らの決断でもって幕引きに踏み切れるか―。その悪さ加減の選択も問われている。
山崎善也(綾部市長)
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