■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第11話―勝尾城の支城『葛籠城(つづらじょう)』―
葛籠城(標高126m・山浦町)は、勝尾城(標高498m)南東の低丘陵に築かれた支城で、筑紫氏の家老(重臣)の島備後守(しまびんごのかみ)の居城と伝えられていますが定かではありません。
葛籠城は、江戸時代の天保10年(1839年)に筑前秋月藩士の大倉種周(たねちか)が作製した絵図『肥前国基肄郡(きいぐん)瓦門戦地之図』に描かれています。
また、天正14年(1586年)薩摩島津氏との合戦において葛籠城・高取城をめぐる攻防戦があり、勝尾城主の筑紫広門(ひろかど)の弟といわれている春門(はるかど)と、島津方の武将・川上忠堅(ただかた)(左京亮(さきょうのすけ))との一騎打ちが今に伝えられています。
この城は、勝尾城の城下防備の最も外側の惣構(そうがまえ)(大規模な空堀による防御線)に次ぐ第二防御線の役割を担っています。城の主郭(本丸)は東西約30m、南北約70mの楕円形に近いシンプルな形状で、周囲には土塁と堀が巡らされ、出入口(虎口)は北西部に1カ所確認されています。
この城の最大の特徴は、主郭南側の尾根を断ち切って造られた長さ約700m、幅約5m、深さ約5m以上の5.字形の二重の空堀が安良川まで延びて谷を遮断していることです。恐らく島津氏侵攻の直前に築かれたもので、何としてもここで島津軍を食い止めようとする徹底抗戦の意思が感じられます。
令和2・3年度には、葛籠城内の構造を明らかにするための発掘調査を行いました。その結果、この空堀に接する平場に敵の侵入を防ぐための柵列跡や通路跡(城内の道)が新たに発見されました。
現在、葛籠城の主郭周辺の樹木の一部を伐採しており、市街地や久留米方面まで一望でき、当時に思いをはせることができます。
紅葉の季節に鳥栖の古城を体感してみてはいかがでしょうか。(鳥栖市誌第3巻第5章第2節より)
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