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とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜第113回

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佐賀県鳥栖市

■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第9話―島津軍の筑紫攻め―

天正14年(1586年)3月、九州制覇を目指す薩摩の島津家は龍造寺(りゅうぞうじ)家、秋月家、筑紫家に人質を求めますが、筑紫家は断り、豊後の大友家と同盟を結びます。
このため、大友・筑紫連合による対島津戦の防御として勝尾城―岩屋城・宝満城(太宰府市)―立花山城(福岡県久山町・新宮町)が形成されます。
島津家は、まず大友方に付いた筑紫広門(ちくしひろかど)の勝尾城を攻略するために進軍することになります。その軍勢は3万以上ともいわれ、筑紫方は2~3千の兵と領民らが籠城したようです。
天正14年7月6日に戦闘が開始しますが多勢に無勢であり、戦いの様子は島津方の重臣上井覚兼(うわいかくけん)の『上井覚兼日記』では次のように記されています。「6日、筑紫麓の下拵(したごしらえ)を残さず破却した。上城の事も一両日中には決着がつくでしょう…」と報じられ、麓の館が落ち10日には城主広門が降伏し、勝尾城は落城します。
筑紫広門は筑後大善寺(久留米市)に連行されますが後に脱出し、8月27日には五ケ山の一ノ岳城(那珂川市)に入り、翌日には勝尾城を取り戻します。
勝尾城を奪還できた背景には、島津方は自らの武将を城番に任せておらず、筑後の武将に任せていたことと、龍造寺家の手助けがあったものといわれています。
天正14年12月、豊臣秀吉の本隊が島津攻めを決定し、20万におよぶ兵が九州平定に動きだします。
天正15年(1587年)4月、筑紫広門は豊臣軍の島津攻めに従軍し、翌月島津家当主義久(よしひさ)は降伏します。
天正15年6月、豊臣秀吉は九州国分(九州諸大名の領地替)を発し、筑紫広門は筑後国上妻(こうづま)郡(八女市とその周辺)1万8000石の大名として勝尾城を離れることになります。(鳥栖市誌第3巻第3章第3節より)

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