■宗門檀那請合諚(しゅうもんだんなうけあいおきて)(後編)
神戸大学大学院人文学研究科 井上 舞
先月号(前編)で紹介した「宗門檀那請合掟」は、実は偽造された文書でした。古代から現代に至るまで、文書の偽造は重罪とされていますが、いつの時代にも多くの偽文書が作成されました。中には、天皇や時の権力者を文書の発給者としたものもあり、そうした権威を利用して自分たちの権利を主張していたことがうかがえます。
今回、山南町北和田で確認された文書は「宗門檀那請合掟」という表題のみが記されています。ほかの地域に残る同内容の文書には、神君様御条目(しんくんさまごじょうもく)や東照宮御条目(とうしょうぐうごじょうもく)といった表題が付されているものがあり、徳川家康が作成したように伝えられていたものもありますが、幕府が宗門檀那請合掟を発給したことを示す記録は残っていません。またこの文書では「不受不施派(ふじゅふせは)」や「悲田宗(ひでんしゅう)」という日蓮宗の一派も禁教の対象となっています。しかし、両宗派が禁止されたのは、寛文5年(1665年)と元禄4年(1691年)で、作成年代とされる慶長18年(1613年)と矛盾が生じます。また、北和田の文書は年号が異なっており、天正10年(1582年)作成のものを、寛文5年に改めて周知したものとして作られていますが、天正10年の段階ではキリスト教は禁教されていませんでした。これは起源の古い方がより価値があるという考え方によるものかもしれません。近年の研究によれば、実際の作成年代は明和年間(1764~1771年)頃で、広く書写され寺院や宗門改を行う村役人の家などに残っていったようです。
宗門檀那請合掟がどれほど人々の間に浸透し、守られていたのかは定かでありませんが、文書を偽造した側としては、徳川家康と神仏の権威を借り、さらに強い言葉を用いて人々と寺との関係を強めようとしていたことがわかります。
問合せ:社会教育・文化財課(山南庁舎内)
【電話】70-0819
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