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特集 中北歌舞伎、ここにあり 36年の幕が下りる、そのときに(1)

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兵庫県多可町

中町北小学校で昭和63年から続いた「播州歌舞伎クラブ」。
昨年11月18日の校内発表会で、36年の歴史に幕を閉じました。
たくさんの子どもたちに愛され、地域に愛された中北歌舞伎の歴史を、関わった人たちの想いとともに振り返ります。

■中北歌舞伎、誕生
「トザイトーザイ」元気な口上で幕を開ける中町北小学校播州歌舞伎。
その始まりは、今から35年前の昭和63年5月でした。
地元に残る伝統芸能「播州歌舞伎」を子どもたちが学ぶことで、伝統を継承し、ふるさとへの愛着を育てようと、クラブ活動の一つとして取り入れました。
当時、播州歌舞伎の最後の座元「嵐獅山一座」の役者だった嵐獅山さんと中村和歌若さん兄弟を指導者に迎え、3年生から5年生まで47人が入部しました。

■週1回の楽しい稽古
クラブ活動は、週1回、約2時間。
子どもたちは、家から持ち寄った浴衣を着て、2人の師匠から歌舞伎の所作やせりふはもちろん、挨拶など礼儀作法を学びました。
歌舞伎って楽しい!
初めて触れる歌舞伎の魅力に、子どもたちは夢中になりました。
歌舞伎クラブの立ち上げに奔走した当時の教諭、故中村耕造さんは、こう振り返っています。

■たちまち大人気
小学校のクラブ活動に歌舞伎を取り入れたことは、当時大きな話題となり、テレビや新聞で引っ張りだことなりました。
昭和64年1月には、嵐獅山一座の東京国立劇場での舞台に、当時小学3年生のクラブ員が面箱持ちの子役で同行しました。
当時の文集には、
「私の一生の思い出です。今度行ける機会があれば、歌舞伎クラブのみんなと行きたいです。」
と感想を残しています。
平成元年3月には、児童や保護者、地域の人たち約300人の観客を前に「寿式三番叟」をお披露目。当時の衣装は、地元の織物会社が播州織生地を無償提供し、それをPTAのお母さんたちが縫い上げて製作しました。
発足2年目になると、町外からも出演のオファーが殺到。子どもたちは、400人、500人のお客さんが当たり前になりました。
発足3年目の平成2年7月には、ベルディーホールの落成記念式で、歌舞伎の外題『義経千本桜」を演じました。
この頃には、子どもたちが太鼓、笛、三味線も担当するようになっていました。
当時、三味線を教えていた故吉田歌子さんは、広報紙の中でこう話されています。
「(中町)北小学校の子どもたちは、一生懸命に取り組んでくれますので、とても楽しい時間を過ごしています。子どもたちが立派に舞台を務めてくれると本当にうれしいですね。」
子どもたちへの指導は、大人にとっても元気の源でした。

■学校教育全体に歌舞伎
中町北小学校では、播州歌舞伎をクラブ活動から各教科に広げることで、さらに特色ある学校づくりに取り組みました。
生活の授業に衣装や道具の学習、社会で歌舞伎の歴史を学習、音楽で和楽器演奏など、さまざまな教科に歌舞伎を組み込みました。
なかでも、4年生の総合的な学習として始めた「隈取教室」では、和歌若師匠が自ら子どもたちに化粧をするなど、いつも教室には笑い声が響きました。
いつしか「中北歌舞伎」は、子どもたちの誇りや自信を育てる学校の宝となりました。

■中央公民館播州歌舞伎クラブ誕生
平成6年、歌舞伎クラブの卒業生や地域の人たちが集まり、「中央公民館播州歌舞伎クラブ」が誕生しました。歌舞伎の楽しさを教わった子どもたちが、もう一度播州歌舞伎の道を歩み始めました。
指導は、獅山師匠、和歌若師匠が務め、後に中北歌舞伎の指導者となる山根加織さんもクラブの主軸として加わりました。

■カブキッズたか誕生
平成17年に多可町が誕生してから4年後の平成21年。播州歌舞伎を全町をあげて継承していこうと、子ども歌舞伎教室「カブキッズたか」が新設されました。
指導には、和歌若師匠をはじめ、中央公民館播州歌舞伎クラブのクラブ員が関わり、「教えること」を通して、役者だけでなく指導者としても歌舞伎継承の大切な存在として成長していきました。
中北歌舞伎を教わった子どもたちが、次の世代に歌舞伎を伝える。昭和63年の発足に関わった人たちの思いがしっかりと子どもたちの体の中に染みこみ、繋がっていました。

■和歌若師匠との別れ
発足から20年が経つ頃には、300人以上だった児童数も、半分の150人ほどになり、活動や支援体制をどうしていくか、指導者の確保など存続への課題は山積みでした。
そんななか、指導者である和歌若師匠が、平成27年2月に亡くなられました。
亡くなる前日に、新年度の歌舞伎クラブについての打ち合わせをしたばかりでした。
突然の和歌若師匠との別れに悲しみに暮れながらも、新年度は始まり、歌舞伎クラブもスタート。
指導は、これまで和歌若師匠の補佐として練習に関わっていた山根加織さんが引き継ぎました。
指導者の突然の交代に、子どもたちも最初は戸惑い、練習がうまく進まないこともあったと当時の山根さんのインタビューにも残されています。
子どもたち一人一人を知って、それぞれに合った指導を見つけていったという山根さん。師匠の思いを受け継ぎながら、自分なりの方法で子どもたちと向き合いました。

■中北歌舞伎が終わる
中北歌舞伎誕生から36年目となる令和5年度。
中町北小学校は、大きな大きな決断をしました。

中北歌舞伎の終わり。

それは長い長い年月をかけて決めた、苦渋の決断でした。

クラブの誕生に関わった故中村耕造先生は、生前の資料の中でこう記されていました。

苦労したことはいっぱいある。
(1)歌舞伎をどのように教育課程に位置づけるか
(2)職員の歌舞伎に対する理解を深めるには
(3)歌舞伎練習の時間の確保をどのようにするか
(4)指導する職員の人数の問題、負担の問題
(5)小道具や衣装の問題
(6)三味線や鳴り物の充実や練習、師匠の確保
(7)子どもの負担度
とにかくやりながら前に進むしかなかった。
(播州歌舞伎クラブの記録より抜粋)

36年前に頭を悩ませた課題は、解決したわけではなく、子どもたちや先生のがんばりと、地域の理解と協力で繋がれてきました。
時代の流れが学校を大きく変えようとしている今、愛され続けた中北歌舞伎は、終わりという岐路に立ち、次の一歩を踏み出します。

※詳しくは、本紙をご覧ください。

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