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我がまち朝来 再発見(第192回)

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兵庫県朝来市

■竹田城最後の城主 赤松広秀
11月18日(土)、19日(日)に第30回全国山城サミット朝来大会を開催します。18日にはお城好き芸能人としても知られる俳優の高橋英樹さん、城郭考古学者の千田嘉博さんの二人が竹田城の魅力を語る記念対談や、近年発達したスマートフォンアプリなど最新技術を用いたお城観光の可能性などを議論するディスカッションを行います。
そこで今回は最後の竹田城主・赤松広秀(赤松広英、斎村政広、赤松広秀、赤松広道と名前が変わっていますが本文では広秀で統一します)についてご紹介します。
赤松広秀は永禄5年(1562)に播磨の龍野城主・赤松政秀の二男として生まれました。10歳の時に父政秀、14歳の時に父の跡を継いだ兄広貞が相次いで亡くなり龍野城主となりました。天正5年(1577)には播磨に侵攻してきた織田方の羽柴秀吉の軍勢に龍野城を包囲され、降伏勧告を受け入れました。龍野城を明け渡した後は、平位郡佐江村で書物に囲まれながら謹慎生活を送ったようです。
羽柴秀吉に旧領の復活を訴え、一部の領地を回復。天正8年から羽柴秀吉配下の蜂須賀正勝の部下となっています。備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国攻めに参戦し、その功が認められて天正13年に竹田城主に任じられました。その後も九州征伐、小田原征伐にも従軍しました。この間天正15年に後に五大老の一人となる宇喜多秀家の妹ちず(ちづる)と結婚しています。国内の合戦の後も朝鮮攻めに参加、文禄の役には配下600人を連れて参戦しました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いには西軍(石田方)に属し、丹後の田辺城攻めに参戦しましたが、そのまま終戦し西軍の敗北が決定してしまいます。その後東軍(徳川方)の亀井茲矩(これのり)の奨めもあり、とりなしのため西軍の鳥取城攻略に参戦しましたが、終戦後徳川家康の命により39歳の若さで切腹しました。広秀の自刃と同じ時期に竹田城も廃城となったと考えられています。
戦国武将として波乱の一生を送った一方で、広秀は学問の習得にも勤しみました。播磨での謹慎時代にすでに知り合っていた、儒学者で日本における朱子学の祖・藤原惺窩(ふじわらせいか)と親交を深めており、広秀も惺窩とともに朱子学に傾倒していきます。朱子学は江戸幕府が開かれてから、戦乱で乱れた人々の規範を正し、秩序維持に利用するために幕府が藤原惺窩の弟子を登用し、浸透していくものですが、これにさきがけて朱子学を学んでいます。朝鮮攻めで捕虜として日本に連れてこられた儒学者・姜沆(カンハン)を自邸に招いて、儒教の経典の書写や解説書、携帯用の文庫本などの製作に取り組んでおり、それまで高位の学僧の間でしか学ばれなかった儒学が、広く浸透する基盤を作りました。儒学や朱子学が現代でも日本人の精神文化の根源にあることをおもえば、広秀の功績は多大なものであったと言えるでしょう。
朱子学を学んだ赤松広秀は凶作の年には年貢を少なくするなど、仁政を施し、また領内の経済発展のために漆塗り産業や、養蚕業の振興に力をいれた名君として今もなお地域で慕われています。
赤松広秀は竹田城に孔子廟を作ったと伝わっており、実際に拝所という名称が残っています。付近からは朝鮮で使われた文様を施した瓦が出土しています。朝来市埋蔵文化財センターでは11月26日(日)まで「竹田城跡最新発掘調査成果展」を開催しています。この朝鮮瓦も公開していますので、ぜひご来場ください。
※「亀井茲矩」の「茲」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。

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