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我がまち朝来 再発見(第193回)

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兵庫県朝来市

■神となった赤松広秀
先月号では竹田城最後の城主・赤松広秀の生涯を紹介しましたが、広秀は死後も人々に影響を与え続けたのです。日本の歴史上、無念のうちに死を遂げた人が悪霊となり、人々を苦しめたという伝説が各地に残っており、平将門、菅原道真、崇徳(すとく)上皇の話は日本三大怨霊(おんりょう)として有名です。これらの人物はいずれも亡くなった後、怨霊となり人々に災いをもたらしたとされ、その後、霊を鎮めるため人々は神社などを建てて、神として祀(まつ)っています。実は赤松広秀にもこのような怨霊伝説があるのです。
赤松広秀は関ケ原の戦いで当初は西軍に所属し、丹後の田辺城を攻城中に関ケ原の敗戦を知り、亀井茲矩(これのり)の奨めに従い、挽回のために東軍に鞍替えして、今度は西軍の鳥取城に攻め入りました。この鳥取城の攻防の最中、東軍は城下に焼き討ちを仕掛け、鳥取の町を焼野原にしています。戦後亀井茲矩は報告のため徳川家康の元を訪れますが、この時家康に「すでに関ケ原の本戦が決着しているのに、なぜ不要に鳥取の市街を焼いて人民を損なったのか。」と詰問され、答えに窮した亀井が「それは赤松広秀の配下がやったことです。」と罪をなすりつけたために、結果、広秀は切腹を言い渡され、鳥取の真教寺で自刃することになったのです。
しばらくして、鳥取の町は鳥取藩の池田長吉のもとで復興しましたが、池田長吉から池田光政(1600年~1632年)の時代に、鳥取の町民を怖がらせる次のような噂が流れます。
・「我こそは赤松なり」と名乗る悪霊に憑(と)りつかれる。このようなことが頻繁に起きた。
・風雨の日や夜中に幽霊が現れる。
・背後から高さ3メートルほどの白装束に鉢巻姿の大男に担ぎ上げられて、投げられた。投げられた男は病気になり3カ月して亡くなった。このようなことが多くあった。
・赤松左兵衛(さひょうえ)と名乗る大男に切りかかられ、足の付け根を切られたと思い、気を失い道端に倒れこんだが、気づいて確かめると傷はなかった。しかし7日後に亡くなった。
町内からの失火が原因という説もあり、赤松勢が火をつけたのかどうか真相は不明です。そもそも鳥取城攻めの責任者である亀井氏がおとがめなしで、援軍であった赤松だけが責任をとるという裁定はどうも腑に落ちません。当時の人々の間では赤松広秀は無実の罪を着せられ、非業の死を遂げた人物として認識され、語り継がれたのでしょう。それがいつしか「恨みをもった赤松広秀の祟り」となっていったのかもしれません。その後、この祟りを恐れた鳥取の人々によって、赤松広秀の霊を鎮めるために祠(ほこら)を建て、神饌(しんせん)を供えて神として祀ったところ、このような事象は次第におさまっていったと伝わっています。
この時たてられた祠は赤松八幡宮跡(鳥取市)として現在も残っています。先に紹介した三大悪霊伝説にまつわるスポットは、現在ではパワースポットとして注目を集めています。もし機会があれば赤松広秀ゆかりのこの祠を訪ねてみてはいかがでしょうか。
※「亀井茲矩」の「茲」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。

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